2007年08月25日

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■天正3年 [1575年]
5月21日 早朝 - 長篠・設楽が原の戦い[ながしの・したらがはらのたたかい]において、武田信玄の跡を継いだ武田四郎勝頼は織田信長・徳川家康軍に完膚なきまでに叩きのめされた。
この戦いで武田軍の重臣、山県昌景[やまがたまさかげ]、馬場信房、土屋昌次らが死んで、武田氏は滅亡の道を突き進むことになる。

時は流れ7年後、一瞬、息を吹き返したかのように見えた武田勝頼であったが・・・

■天正10年 [1582年]
2月 - 武田勝頼は信長方に寝返った妹・真理姫の夫の木曾義昌[きそよしまさ]を攻めた。
親類縁者であるはずの木曾義昌が謀反を起したのは、度重なる出兵による財政難のために勝頼が課した賦役の増大に不満を抱いていた折に、更に新府城築城で賦役を課されたことが原因だった。
勝頼は信長等との戦いで軍資金に窮していたのだが、それに対する愚策が親類縁者の裏切りを招いてしまった。仕方が無いとはいえ自業自得である。

2月3日 - 織田信長はこの好機を逃さなかった。信長は木曾義昌謀反の報を聞き及び、武田勝頼討伐の大動員令を発した。目の上のタンコブでしかなかった甲斐武田氏を一気に滅ぼしにかかったのである。
信長の命を受けた武田征伐軍はぞくぞくと甲斐へ出陣していった。この一連の動きは武田征伐とも武田崩れとも言われる。
信長嫡男・織田信忠が伊奈方面より、徳川家康が駿河より、金森長近が飛騨より、北条氏直が関東と伊豆より武田領に侵攻した。そして信長自身も今まさに出陣せんと仕度をしていたのである。
北条氏政の嫡子・氏直が出陣した理由は次の通り。
まず第一に北条氏は織田信長と好誼を結びたかった。
そしてこれより先に、越後・上杉謙信死後の関東管領・上杉家の家督相続争いである御館の乱[おたてのらん 天正6年 1578年]が起きた際、北条氏康の次男であり氏政の弟の七男・上杉景虎[北条氏秀]を勝頼が見捨て、上杉景勝側[謙信の甥]に付いたことによる。勝頼の継室は氏康の娘で、天目山の戦いで勝頼と共に自刃した北条夫人。
つまり勝頼は妻の兄弟の味方につかなかったということになる。御館の乱の結果、上杉景虎は家督相続争いに破れ自刃し、上杉景勝が家督を継いだ。
景勝は勝頼を味方に付ける為、東上野[ひがしこうずけ]の割譲と黄金一万両[二万両とも]を送る事を約束したとされる。財政難に喘ぐ勝頼は金に目が眩み、北条家まで敵に回してしまった。この時点でのみ言うなら勝頼の失策としか言いようが無い。
そして、ご存知のように、この後 上杉景勝は豊臣政権の五大老の一人にもなるほど大成するが、関が原の戦いで家康に破れ大減封されるに至っている。

2月18日 - 徳川家康が浜松城を出陣した。

2月28日 - 武田勝頼は追っ手が迫り、諏訪から新府城[未完成]に逃亡した。

3月1日 - 織田信忠は武田勝頼の弟・仁科盛信[にしなもりのぶ]の籠城する高遠城を包囲し、地元の僧侶を使者として城内に送り込み開城を迫った。
それに対し仁科盛信は「我らは不義の臆病者ではない、早々に攻めて来られるが宜しかろう」と使者の僧侶の耳と鼻を削ぎ落し、信忠の元へ送り返したと言う。

3月2日 - 果たして、これに対し織田信忠は激怒し、5万の兵で高遠城に猛攻撃を加えた。仁科盛信は奮戦したものの力尽き、城兵全員が玉砕し高遠城はついに落城した。
盛信の最後は満身創痍、甲冑を脱ぎ捨て、脇腹に短刀を突き刺して腸を引っ張り出し、壁に叩きつけての絶命だったと言う。見事としか言いようが無い。城兵の働きに関しては敵方の資料であるはずの信長公記にも「比類なき働き、前代未聞の次第なり」と記されている。
最後の武田武士は仁科五郎盛信だったのかもしれない。

3月3日 - 仁科盛信が討ち死にし、信忠軍は武田勝頼を追った。勝頼は新府城も危ないと見て城に火を放ち、祖父・武田信虎以来の武田家の重鎮を務めてきた小山田家・小山田信茂の進言もあり、彼の岩殿城に向け出発した。
城に火を掛けた際、城内には各所から提出させた人質が多数閉じ込められていた。これを閉じ込めたまま焼き殺す形となったが、人質達のどっと泣き悲しむ声は天にも響くほどで、その哀れな有様はどうにも表現しようが無い[信長公記]。

3月5日 - 織田信長が安土城を出陣した。

3月9日 - 武田勝頼と嫡男・信勝の一行が岩殿城の手前に差し掛かると、小山田信茂の軍勢から攻撃を受けた[小山田信茂の裏切り]。慌てた勝頼父子は天目山へ逃げこんだ。新府城を出立したときには500人ほど家臣たちがいたようだが、この時には途中逃亡などして、わずか41人に減っていたと言う。

3月11日 - 甲斐武田氏・最後の決戦、天目山の戦い。
ついに武田勝頼は山奥の民家に潜んでいたところを滝川一益[たきがわかずます]の軍勢に囲まれ、もはや逃れることは出来ないと悟り、勝頼、信勝、家来達は次々と打って出て見事に討ち死にした。高名を後代に伝える、比類なき働き[信長公記]。北条婦人や、その他の一行も見事に後を追い自刃したという。

そして、ここに甲斐源氏・武田家は滅亡した。

3月14日 - 進軍中の信長の元へ勝頼の首級が届けられる。信長は勝頼の首級を杖で突き、足蹴にしたという[常山紀談:じょうざんきだん]。信玄以来、積もりに積もった積年の恨み晴らしたりと言うわけだ。

3月21日 - 織田信長が諏訪に到着した。

4月1日 - 信長、甲斐へ向かう途中、生涯初となる富士山を見る。

4月3日 - 信長、武田の本拠地であった躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]の焼け跡に到着した。勝利を確信すると共に、信長は何を思ったのだろう。

4月10日 - 信長、東海道遊覧に向かい、帰路につく

4月21日 - 信長、安土城に凱旋する。この一月半後、本能寺の変が起き、織田信長は自刃する。

6月2日 - 本能寺の変

ううむ、これが歴史と言う物か・・・

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板


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かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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