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元和元年 [げんな 1615年] 大坂夏の陣
5月7日 朝
真田幸村[信繁]の軍勢は茶臼山[ちゃうすやま]に陣を構え、西軍の最前線となっていた。
一方、東軍の総大将である74才の家康も自らが出陣し陣を構えていた。
真田幸村の陣から、家康本陣までは約1里[4km]と言う距離。後が無い最後の決戦に挑まんとする幸村の軍勢は深紅の赤揃え。赤い甲冑・具足[赤い兜、赤い鎧、赤い小手]を身に付け、そしていずれも赤い旗を立て、幸村の突撃の命を待っていた。
ついに幸村が突撃の命を下し家康の本陣を急襲する。家康は幸村隊の猛攻に自決をも覚悟したというが、討ち取られる寸でのところで家臣たちに救われた。
そして、幸村隊の突撃により2代将軍・徳川秀忠の陣も手薄になり、秀忠自身も西軍・豊臣の兵に狙われることとなる。将軍を守ったのは徳川将軍家の剣術指南役になった柳生宗矩[やぎゅうむねのり、又右衛門]だった。彼は迫り来る豊臣の兵を7人連続で切り殺したと言う。彼がいなければ秀忠も危うかっただろう。
かくも家康と将軍秀忠を追い詰めた真田幸村だったが、善戦空しくも討ち死にし、終に六文銭を使う時が訪れた。
そして翌5月8日には豊臣秀頼・淀殿母子が大坂城で自刃、大坂の役は終結、ここに豊臣家は滅びたのである。

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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