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タイムスリップ戦国時代
ラジオドラマ タイムスリップシリーズ 青春アドベンチャー
何ですかこれはw
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NHK大河ドラマの終わりに流される
~紀行
なかなか味があります。
葵徳川三代 葵紀行
近江 長浜 国友村 [滋賀県]
天文12年[1543]ポルトガルより鉄砲が伝来した。
一年後、天文13年[1544]2月 室町幕府十二代将軍 足利義晴が管領 細川晴元に命じ、国友村の鉄砲鍛冶・善兵衛らに鉄砲製作を行わせたのが国友鉄砲鍛冶の始まりだという。
堺と国友が鉄砲の二大生産地となったが、国友の鉄砲鍛冶職人たちは、信長、秀吉、家康をはじめとする全国の戦国大名から厚い信頼を得、関が原の戦いでは東西両軍の鉄砲を作っていた。
その後の徳川幕府の治世でも重用された。
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関ヶ原の戦い
名場面 島津の退き口
関が原の戦いはすでに東軍勝利で終わろうとしていた。
敗れた西軍のほとんどの味方は敗走し、西軍・島津義弘の隊は敵中に孤立した。
絶体絶命の危機に島津義弘が下した決断は決死の敵中突破だった。
300の兵で数万の敵陣に突っ込むという、前代未聞の脱出劇がここに始まる。
奇跡的に敵陣を突破した島津隊の一部は敵の猛追を受ける。
迫る敵に対して、島津の兵たちは「捨て奸(すてがまり)」という戦法を使った。
大将の島津義弘を逃さんと、代わる代わる踵を返し、死ぬまで敵の足を止めたのである。
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その時歴史が動いた
黒田如水[官兵衛]・もうひとつの関ヶ原
徳川家康と石田三成が雌雄を決する戦いを行っている時、
九州の片隅でひそかに天下を狙っている男がいた。
その名は黒田如水
黒田如水の立てた策略とは、関が原の合戦で手薄になった九州を平定し
その返す刀で、関が原で疲弊した戦国大名たちを撃破し、一気に全国統一をという物だった!!
花々しく一合戦つかまつる
天下は我が掌中にあり
関連動画
黒田官兵衛 秀吉に天下を取らせた男
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その時歴史が動いた 真田幸村 どん底からの挑戦
家康を追いつめた伝説の名将
関が原の戦い ~ 大坂の役[おおざかのえき]
関が原の戦い[慶長5年 1600年]で石田三成がたの西軍についた真田昌幸、真田幸村[信繁] 親子は、合戦の後、紀州九度山[和歌山県]に蟄居[ちっきょ]させられる。
処刑されなかったのは、家康がたの東軍についた幸村の兄・真田信幸[信之]の助命嘆願のおかげだという。
そして時は流れ、慶長19年[1614年]、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の鐘に「国家安康 君臣豊楽」の文字が刻まれると、家康がそれに難癖を付けたいわゆる方広寺の鐘銘事件が起きた。
それを切欠として、終に大坂の役が勃発する。
一方、紀州九度山に蟄居中の真田昌幸は失意のうちに死に、
48才になった幸村も何の幸せも感じず、ただ年を取るだけの貧しい暮らしをしていた。
その幸村に大坂城の豊臣秀頼とその母 淀殿(茶々)から書状が届く。
徳川家康と戦うため、直ちに大坂城に馳せ参ぜよという勧誘の書状だった。
このまま失意のうちに老いさらばえてしまうのかと、悶々とした日々を過ごしていた幸村にとって、まさに願ってもいない千載一遇のチャンスが訪れた。
この時、豊臣家から軍資金として幸村には黄金二百枚、銀三十貫が支給されたという。
これは今の通貨価値に換算すると9億円に匹敵するという。いかに豊臣家の資産が膨大なものだったか想像がつく。
こうして、真田幸村のどん底からの挑戦が始まる。
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その時歴史が動いた 秀吉に天下を取らせた男
黒田官兵衛[如水]
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クローゼットのタイムマシンを介して、ピエール瀧が扮する信長が、現代の妻夫木聡の家に遊びに来る東京ガスのCM 信長編の最終回。
料理を満喫したのだろうか、満足気の信長は本能寺に帰ると言う。
史実を知る妻夫木聡は「そこには戻らない方が・・・」と言うが。
信長はその言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、「達者でな」とにこやかに天正十年六月二日の本能寺に帰っていった。
下が明智光秀編
この明智光秀が・・・笑
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信長や秀吉のことで時々思い出し、またすぐ忘れるのは
この人たちは尾張や大阪の人間なんだから名古屋弁や大阪弁で話していたということ。
ちょっと勉強不足なので分からないのだが、400年前の昔もこの地方では方言が話されていたんですよね?
1990年代の金鳥の網戸掃除スプレー「アミライト」のCMを見て、またそのことを思い出した。
人間生きて五十年だでよw
鉄砲もええが、これからはアミリャートだわ。
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