Gackt 風林火山 長尾景虎 上杉謙信 [風林火山]
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
長尾景虎 上杉謙信 役 Gacktの風林火山でのシーン詰め合わせ。
Gacktファン必見の動画です。
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
長尾景虎 上杉謙信 役 Gacktの風林火山でのシーン詰め合わせ。
Gacktファン必見の動画です。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
戦国BASARA2 - 毛利元就 ボイスギャラリー
どうして、戦国BASARAの毛利元就はこんなにいやなキャラなんでしょうか?
実際の毛利元就はそれほどひどくは無いと思うのですがね。
子供たちに与える影響は甚大だと思います。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
信長 KING OF ZIPANGU
第35話 「足利幕府滅亡」
室町幕府滅亡を描く
もはや織田信長の傀儡と化した15代将軍 足利義昭だったが、
信長による比叡山延暦寺の焼き討ちなどを口実に、ついに信長討伐の檄を飛ばした。
これに呼応した甲斐 武田信玄をはじめ、
いずれも反信長勢力である三好三人衆、松永久秀、
毛利輝元、浅井長政、朝倉義景、本願寺がいっせいに兵を挙げ
ここに信長包囲網が完成する。
徐々に追い詰められる信長、もはやこれまでかと死をも悟ったが、
ここで思いもよらぬ出来事が起こる。
武田信玄の死である。
形勢逆転と見るや、信長は一気に再上洛し
足利義昭は最後の抵抗を試みるものの破れ、終に降伏した。
ここに室町幕府は滅亡したのである。
エンディングソング
将軍アンインストール
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
葵 徳川三代
第30回 「大坂城炎上」
大阪の陣[おおざかのじん]
真田幸村(信繁)が大活躍
豊臣秀頼と淀殿(茶々)が自刃
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
信長 KING OF ZIPANGU
13話と14話
桶狭間の戦い
この桶狭間の戦いは奇襲ではなく、正面突破の桶狭間の戦いでした。
1/3 2/3 3/3
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
室町幕府15代将軍・足利義昭の替え歌
将軍アンインストール
足利義昭の心情と歴史の流れをうまく歌い上げていると思います。
よく出来ていますね。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
大河ドラマ 信長 KING OF ZIPANGU 長篠の戦い
織田信長 : 緒形直人
徳川家康 : 郷ひろみ
武田勝頼 : 黒田隆哉
最近は定説として覆りそうな雰囲気ですが、
長篠・設楽が原の戦いと言えば、
信長・家康連合軍が突進してくる武田の騎馬軍団を
馬防柵越しに鉄砲の三段撃ちで壊滅させたシーンが有名ですね。
この動画・信長 KING OF ZIPANGU 「長篠の戦い」の戦闘シーンですが、
緒戦、拵えた陣城[じんじろ]の中で
信長・家康の連合軍鉄砲隊は固唾を飲んで武田の突進を待ち構えています。
立ち込める朝霧の中、馬防柵の向こうでは、
諏訪太鼓衆が武田の兵士達を鼓舞するという
ちょっと奇抜な演出で武田軍の突進が始まります。
こういった事は演出なのか、実際に戦闘前に行われていたのかちょっと勉強不足でわかりません。
朝霧の中からどっと攻め寄せてくる騎馬隊はとても迫力がありました。
武田軍は次々と打たれるのですが、それでも突進してきます。
終に勝頼軍は壊滅するのですが、
続々と勝頼に届けられる重臣たちの討ち死の報が印象的でした。
先に言ったとおり、最近、長篠・設楽が原の戦いの構図として、
鉄砲隊対騎馬隊のこのような戦闘はありえないという説が叫ばれはじめていますが、
実際どうであれ、私にとっての長篠・設楽が原の戦いは、まさに攻め寄せる騎馬隊を迎え撃つ鉄砲隊という構図です。
この長篠・設楽が原の戦いはなかなかの雰囲気でしたね。
こちらもあわせてご覧下さい。
その時歴史が動いた 第007回 「織田信長・勝利の方程式」
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
YouTubeより引用
徳川家康生誕の岡崎城より西へ八丁はなれた八丁村、ここが八丁味噌の起こりと伝えられてい る。
八丁味噌は風味の良さと長期保存が可能で携帯にも便利なため三河武士の兵糧としても愛用された。
-------------
なるほど、この豆味噌は兵糧として使われたんですね。
だから、家康はうんこを漏らした時、「これは焼き味噌じゃい」と言い張ってたのか
ちなみに調べてみると、
一丁(町)は約109m、八丁は約872mの距離だというから
本当に岡崎城に近い場所でこの味噌を作っていたと言うことになります。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
先日、エントク和尚の一分説教、豊臣秀吉が肖像画を描かせた際の三条件を紹介しましたが、
今度は大阪城の石の話です。
秀吉は大阪城の石垣を組まさせる際、またもや職人に困難な指示を出します。
それは小さな石から組んで行き、上に大きな石を置けという常識外れな事でした。
たぶん全体にそれをやると崩れるんで一部分だと思います。
そして四国から巨石を運んだと言いますが、その運び方にも技術が必要でした。
活躍したのは京都の石匠たちだったと言います。
なかなか面白い話ですね。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
蘭奢待[らんじゃたい]は東南アジア産の高級香木で、
8世紀頃、東大寺正倉院に納められた国宝級の宝です。
今まで足利義満、足利義教[よしのり]、足利義政、織田信長、明治天皇しか切り取っていません。
説がいろいろあり、動画では三人しか切り取ってないと説明されています。
ご覧のように、切り取った部分に誰が切り取ったか分かるように付箋が貼ってありますね。
当時、信長が蘭奢待を見たいと東大寺に申し出たとき、
東大寺は天皇の勅旨が無いと見せることは出来ないと断ります。
その後、勅旨を携えた信長は東大寺に押し掛けます。
比叡山延暦寺の二の舞を恐れた東大寺側は蘭奢待を差し出します。
恐れていた通り、信長は蘭奢待を切り取りました。
切り取られた蘭奢待は二片で、片方は正親町天皇[おおぎまちてんのう]に献上されました。
後日、信長は茶会を催し千利休らの前でこの蘭奢待を焚きました。
高貴で濃厚な香りが漂ったと言うことです。
ちなみに蘭奢待の字を良く見ると東大寺の文字が隠されています。
1/3 2/3 3/3
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
信長の野望 オンライン 飛竜之章 征天之巻
海外版のオープニングムービーかな
ちょっと不明です。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
「信長は生きていた」という。いや実際生きていた。
時間が余りあって、暇で暇でしょうがない方は見てみてください。
きっと楽しめます。
本人曰く、「本能寺はマジやばかった。」
いやしかし、本能寺はなんとか宇宙人に助けられ生き延びたとして、人間50年じゃなかったのか・・・
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
信長や秀吉のことで時々思い出し、またすぐ忘れるのは
この人たちは尾張や大阪の人間なんだから名古屋弁や大阪弁で話していたということ。
ちょっと勉強不足なので分からないのだが、400年前の昔もこの地方では方言が話されていたんですよね?
1990年代の金鳥の網戸掃除スプレー「アミライト」のCMを見て、またそのことを思い出した。
人間生きて五十年だでよw
鉄砲もええが、これからはアミリャートだわ。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
エントク和尚の一分説教
豊臣秀吉が関白になった時、狩野光信に肖像画を描かせた。
有名な絵なので一度はご覧になったことがあると思うが、
その際に、秀吉は絵師の狩野光信に三つ要望した。
その一 : 大柄に見えるよう描くべし
その二 : どしっとしているように描け
その三 : 美男子に描け
美男子に描けで、この不細工猿顔ということは、元はどんだけ~という話だなこれは。
※狩野光信は狩野永徳の嫡男で父と共に安土城、大坂城、聚楽第などの障壁画を描きました。
永徳の跡を継ぎ、信長が死んだ後は豊臣秀吉に仕えています。
戦国時代・歴史ブログならココで探そう
|
武田信玄と上杉謙信は、二人とも信長大ピンチの時に都合良く死んでいる。
ありえなくも無い話だが、この説は強引過ぎる感もある。
突っ込み所が満載です。
とりあえず見てください。
Copyright © 戦国時代ネット 昨日:00035 今日:00026 合計:0065270 |