黒田如水(黒田孝高 よしたか)が築城した中津城が売りに出ていると言う。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/09/18/02.html
黒田孝高という男は終には天下人となった豊臣秀吉に仕え、その軍師として竹中半兵衛とともに秀吉の二兵衛[にひょうえ]と呼ばれ双璧をなした。
黒田孝高や黒田如水というより、通称の黒田官兵衛の方が有名かもしれませんね。
黒田官兵衛なくしては、秀吉の天下人達成はなかったと断言できるほどすばらしい働きをしています。
官兵衛が本領を発揮しだしたのは捕虜という苦境から助け出された時からでした。
荒木村重が信長に謀反を起して有岡城[伊丹城]に篭城した際、直談判をしに乗り込みましたが、
逆に捕らえられ、一年も狭い土牢に閉じ込められたのです。足が曲がってしまうほどの狭い土牢だったそうです。
実際その後は、歩行すら困難になりましたが、
武芸ではなく智謀・知略を必要とする軍師にとって、足の障害も致命的な痛手にはならなかったようです。
後に黒田官兵衛はキリシタンになりますが、この頃の辛い思いや、のちの梅毒への罹病が影響していたのかもしれません。
そしてこの時のエピソードは良く知られていますね。
官兵衛がなかなか戻ってこないので、信長は官兵衛が荒木村重側に寝返ったと思い、信長に(秀吉預かり)人質として入れられていた官兵衛・嫡男の松寿丸[長政]を処刑しようとしましたが、
病身の竹中半兵衛の機転(秀吉の了解の下、密かに信長の命に逆らい保護した)により、松寿丸の処刑は危うく免れています。本当に危ないところでした。
ここで松寿丸が殺されていたら、その後のしがらみで官兵衛の活躍も無かっただろうから、当然、秀吉の天下も無かったかもしれない。
後の関が原で一番武功を立てた黒田長政もいなかったのですから、家康の時代も来なかったかもしれません。
言い始めたらキリがありませんが、これが歴史の面白さです。
ちなみに竹中半兵衛は官兵衛が救出される半年前に、三木城攻めの本陣・平井山の陣中で病死しています。
その後は秀吉の軍師として、旭日天に昇る勢いの活躍を見せます。
因幡・鳥取城の兵糧攻め、備中・高松城の水攻め、賤ヶ岳の戦い[しずがたけのたたかい]、小牧・長久手の戦い[こまきながくてのたたかい]、四国平定、九州平定、小田原攻めなど、
秀吉の中国遠征以降、殆どの重要な合戦で各種名案を策し、展開していきます。
そして、この城・中津城の話に戻りますが、築城年は天正16年(1588年)です。
この頃の流れを見て見ましょう。
天正16年というと、いよいよ秀吉の天下取りも終盤戦に差し掛かってくる頃でした。
四国や九州の平定が終わり、
秀吉の命によりキリスト教を棄教し、
嫡男の黒田長政に家督を譲って隠居した頃です。
つまり、黒田孝高が如水軒と号し隠居した後に暮らした本拠地・城が中津城です。
隠居と言っても長政に家督を譲り、黒田如水となってからも秀吉に仕え、
小田原征伐や文禄・慶長の役の朝鮮出兵にも参加しています。
これでは隠居と言えませんね。
その朝鮮出兵の際に石田三成とごたごたがあり、黒田如水は引退し中津城に篭りました。
秀吉が死んだ後は京都に行き、伏見屋敷ですごしたりしていました。
そして、またもや戦場に呼ばれることになります。
慶長5年 1600年、ご存知の関が原の合戦が起こります。
九州に移動していた黒田如水は家康方の東軍につきました。
秀吉恩顧の黒田如水がなぜ東軍についたのでしょうか?
秀吉が死んだ後、黒田氏は急速に家康方に近づいていくこととなります。
さすが一流の軍師です、時代の流れにのる才にも長けていました。
決定的なのは嫡男の長政の正室が家康の養女だったことと、先に触れた石田三成との確執が家康方についた理由だと思われます。
如水は引退していたため常備軍が無く、1万の即席の軍勢を従えて九州の西軍・大友義統と戦い勝利を収め有終の美を飾っています。
農民をも含む即席軍を指揮し、勝利してしまうのがすごい。
一方、長政は関が原で一番武功を上げ、家康より筑前名島52万3000石を与えられています。
その後、黒田如水は中津城から福岡城に越して完全に引退し、長政は徳川幕府において初代福岡藩の藩主となります。
中津城はこういう時代と人物に使用された由緒・歴史のある城なのです。
その城がたった3億で売りに出されています。3億では安すぎる。
天守閣は鉄筋コンクリートに作りかえられているそうですが、そんなことはまったく気にしないでよいでしょう。
背景やストーリーが大事です。
戦国時代ファンとしては本当に欲しいと思ってしまいました。
3億じゃ絶対買えませんが笑
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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板