2009年10月31日

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天下統一を狙う織田信長に対抗した本願寺勢力が、11年間にわたって拠点にした石山本願寺。大阪城天守閣(大阪市中央区)近くで見つかった少量の土器片は、覇権争いが繰り広げられた戦国絵巻をほうふつとさせる成果となった。

 歴史教科書にも登場する石山本願寺は、戦国史研究にとって重要な寺院にもかかわらず、実態はほとんど分かっていない。寺があったとされる現在の大阪城公園内は大半が国特別史跡で、観光客でにぎわう場所でもあり、発掘調査が困難なことが大きな理由だ。

 こうした中、平成19年の調査はわずか50平方メートルだったが、年代が特定できる土器や石山本願寺炎上に結びつく土壁などが見つかった。佐藤隆・大阪市文化財協会事業担当係長は、天正10(1582)年の本能寺の変で炎上した本能寺跡(京都市中京区)出土の土器などと丹念に比較しながら、16世紀後半と特定したという。佐藤係長は「見つかった土器は石山本願寺が勢力を誇った時期とほぼ合致した」と話す。

 中近世に詳しい松尾信裕・大阪城天守閣館長(考古学)は「土器の年代は石山本願寺の時期でほぼ間違いない。現在の大阪城にあったとする説を裏付ける成果だ」と評価。土器が大坂城築城時の造成土の中にあったことから、「発掘現場から近い場所に石山本願寺の中心施設があった可能性が高い」と指摘した。

 石山本願寺は信長の攻撃に備えて、要塞(ようさい)を思わせる堀や土塁を築いたとされ、石山合戦でも信長側の占領を許さなかったという。松尾館長は「石山本願寺は信長勢に屈しないほど難攻不落で、まさに城郭というべき寺院だった」とし、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが「旧城」と記した点については「フロイスが城郭と感じるほど堅牢(けんろう)だったからだろう」と話した。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/318995/

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大阪城天守閣(大阪市中央区)北側で、16世紀後半の素焼きの土器や焼け焦げた土などが市文化財協会の発掘調査で見つかっていたことが30日、分かった。同協会の佐藤隆事業担当係長によると、織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦の舞台で天正8(1580)年に炎上した当時の浄土真宗本山「石山本願寺」跡の可能性が高いという。石山本願寺は炎上後、豊臣秀吉が大坂城を築いたとされているが、これまで明確な痕跡は見つかっておらず、幻の寺院の存在を裏付ける資料になりそうだ。

 調査は、国特別史跡・大坂城跡整備に伴い、平成19年に約50平方メートルの範囲で行われた。地下約4メートルの地層から、「土師器(はじき)」と呼ばれる素焼きの土器の破片8点、焼けた土や土壁の破片が確認された。ただし、調査当時は土器の年代特定が困難だったことなどから、石山本願寺との関連は不明だった。佐藤氏が、土器の形や出土した地層を詳細に調べた結果、土器は天文年間(1532~55年)の後半から、天正8年までに使われた可能性が高いことを突きとめた。

 さらに、土器が見つかった層や、直上の層は土が厚さ約1メートルにわたって積み重なっており、石山本願寺焼失後、大坂城築城に伴ってこの一帯が大規模に造成されたことが分かった。

 発掘調査では、石山本願寺に関連する建物跡などは見つからなかったが、土器は石山本願寺にいた僧らが儀式や日常生活などに使ったと推定。焼けた土壁は、天正8年に炎上した石山本願寺の施設の一部とみられるという。

 石山本願寺については、当時、日本に布教にきていたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが母国に報告した中で「豊臣秀吉の大坂城は旧城(石山本願寺)の堀の中に築かれた」と記されていることなどから、現在の大阪城公園内にあったというのがほぼ定説になっている。

 ただ、明確な遺構が見つかっていないため場所は特定されていない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091031-00000051-san-soci

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2009年06月19日

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信長の町「安土」さらば 合併案可決で「近江八幡市」に
安土町と近江八幡市
 滋賀県安土町の町議会は15日、近江八幡市との合併を決める廃置分合(合併)議案を賛成多数で可決した。近江八幡市議会はすでに合併議案を可決しており、来年3月21日には新たな近江八幡市が誕生する。戦国の世、織田信長が安土城を置き、中世ヨーロッパにも伝えられた「安土」の名が自治体名から消える。

 安土町と隣接自治体との法定合併協議は過去2度にわたり破談、3度目でようやく合意した。02年は現在、東近江市となった隣接2町と協議。名前は「安土市」と決まったが、協議先の町議会の反対で頓挫した。05年には近江八幡市との合併構想が浮上。名前も「安土八幡市」と決まっていたが、今度は町民の反発で破談に追い込まれた。

 今年4月、合併市町村への財政優遇措置を盛り込んだ合併新法の期限切れが1年先に迫ったことから、安土町は近江八幡市との合併協議を再開。だが、前回、町側の事情で合併がつぶれた市側は、新市名を「近江八幡市」のままにすることを主張した。

 安土は信長ゆかりの地として有名。16世紀末に日本を訪れたポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが著した「イエズス会年報」の中でも「ANZUCHI」と紹介している。一方、近江八幡は豊臣秀吉のおい秀次が築いた城下町。近江商人発祥の地でもある。最終的には町側が妥協し、安土の名が消えることになった。

 現在、町では合併推進の津村孝司町長へのリコール運動が起きており、リコール署名に有権者の3分の1超の町民が署名。津村町長が一部を無効とする異議を申し立て町選管が再審査中だ。ただ、住民投票で町長のリコールが成立して合併反対の新町長が誕生しても、議会で議決された合併が覆ることはない。
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK200906160005.html

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2009年06月08日

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<豊臣秀吉>死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ

 肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13日に名古屋市で開かれる日本病跡学会で発表する。

 かっけはビタミンB1不足で起きる。足のしびれ・むくみが典型的な症状だが、下痢や失禁、精神錯乱、心不全なども引き起こす。食事が白米中心だとかかりやすく、かつては富裕層に多かった。

 若林さんによると、当時の宣教師がイエズス会に送った報告書に、秀吉が死の直前の約2カ月間、下痢を患って狂乱状態に陥ったとある。別に失禁の記録もあり、いずれもかっけの症状と合うという。

 若林さんは「かっけで死亡したとされる徳川14代将軍・家茂(いえもち)と症状が同じ。なぜ今まで『秀吉かっけ説』が提唱されなかったのか不思議なくらいだ」と新説に自信を見せている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090608-00000119-mai-soci

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2009年05月31日

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織田信成、6月2日 本能寺で必勝参拝 / フィギュア

バンクーバー五輪を目指すフィギュアスケート男子の織田信成(22)=関大=が、6月1日に一族の宿命の地、本能寺(京都市中京区)に参拝することが29日、分かった。くしくも先祖にあたる戦国武将、織田信長が自刃した「本能寺の変」は天正10年6月2日(西暦では1582年6月21日)。同寺で「信長公忌」が行われる先祖の“命日”を前に手を合わせ、五輪シーズンへと出陣する。

 フィギュア界の天下統一へ命運をかけた“合戦”を前に、信成が宿命の地に立つ。6月1日、新シーズンへの必勝祈願と武運長久を願い、本能寺に参拝することが決まった。

 織田信長が重臣・明智光秀の謀反に倒れた「本能寺の変」は天正10年6月2日。参拝日はくしくも“命日”の前日にあたる。本能寺で毎年、信長の供養を行っている2日の「信長公忌」を前に、17代目の末裔(まつえい)にあたる信成が同寺を参拝。信長ゆかりの大刀が納められた墓石が立つ信長公廟(びょう)で手を合わせる予定だ。

 「ご先祖さまがいらっしゃるから信成さんがいらっしゃる。感謝の意を込めて、お参りされるのは大変いいことだと存じます」と同寺広報担当者。信長が上洛中の宿所としていた本能寺は織田家にゆかりが深く、現在でもドラマや映画で信長役を演じる俳優が参拝することで知られる。志半ばで自刃した信長に思いをはせ、天下統一への思いを高めるにはうってつけの場所だ。

 “合戦”へ備えは万全だ。信成は29日夜、約2週間の米国滞在を終え、帰国した。渡米中はニコライ・モロゾフ・コーチの下、五輪に向けた新プログラム作りにも着手。6月14日には関大のイベントにゲスト出演。同19-21日には浅田真央(中京大)らとともに「ドリーム・オン・アイス2009」(新横浜スケートセンター、産経新聞社など主催)でエキシビションを披露し、新シーズンを本格始動する。

 昨季はバイクの飲酒運転発覚による謹慎期間という、辛い反省の時を経て劇的な復活を遂げた。「負けたくないし、五輪に出場したい」と誓う一世一代の戦いを前に、信成の野望がうずき出した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090530-00000015-sanspo-spo

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2009年05月14日

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NHK、大河ドラマ「天地人」でサブリミナル的?演出

 NHKが今月10日に放送した大河ドラマ「天地人」の中で、肉眼で確認できないほど短いカットを挿入し、人の潜在意識に働きかける「サブリミナル手法」に似た演出を使っていたことが、13日わかった。

 NHKによると、本能寺が爆発するシーンの直前、ドラマタイトルの「天地人」に対応する空、水田、明智光秀役俳優の横顔の3カットが計0・2秒間挿入され、複数の視聴者から「サブリミナル映像ではないか」という問い合わせがあった。

 映像作品のサブリミナル的手法については、1994年の映画「RAMPO」で論議を呼び、NHKは「通常知覚できない技法で、潜在意識に働きかける表現はしない」とする自主基準を定め、日本民間放送連盟も「公正とはいえず、放送に適さない」という放送基準を示している。

 NHKは、「死を目前にした織田信長の気持ちを印象的に伝えるための演出。短いながらも知覚できるカットで、サブリミナル手法にはあたらない」と説明している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090514-00000023-yom-ent

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2008年11月23日

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戦国期激闘の痕跡
長浜・横山城遺跡 防御用切岸など出土

敵を防ぐために設けられた切岸の遺構(長浜市の横山城遺跡で) 戦の際、刀の鞘から外れたとみられる鐺

敵を防ぐために設けられた切岸の遺構(長浜市の横山城遺跡で) 戦の際、刀の鞘から外れたとみられる鐺  長浜市東部の横山城遺跡で、16世紀後半のものとみられる、刀の鞘(さや)の先端部にはめる金具「鐺(こじり)」が県内で初めて出土し、市教委が20日、発表した。防御のため斜面を削った切岸(きりぎし)、土塁の基礎となった石列などの遺構も検出されており、織田信長らが足を踏み入れ、激戦の舞台となった同城の実像が浮かび上がってきた。

 市教委によると、同城は京極氏によって築かれ、浅井氏の手に渡った時期を経て、姉川の合戦(1570年)の際は、信長の軍が浅井氏攻めの拠点と位置付け、陣取った。主要な施設は横山の南北2か所にあったと推測されているが、これまで建物遺構は出土していない。

 今年8月、市教委が標高300メートル付近の3か所(計約50平方メートル)を発掘。雑兵を配置する曲輪(くるわ)の跡から、土師器(はじき)や信楽焼の皿などとともに鐺1点が見つかった。

 楕(だ)円柱形の銅製品で、鞘の先端に当たっていた底部の長径が約3・5センチ、高さ約1・8センチ、重さ約9・4グラム。装飾はなく、雑兵の刀の鞘が戦で破損した際、落ちたとみられる。当時、武具の部品は回収されるのが普通だったので、出土することは珍しい。

 切岸遺構は、曲輪跡の西側、二重の空堀の直上に位置する。高低差約5・2メートルの斜面の土を、長さ約8メートルにわたって削っており、西側の守りの要だったことがうかがわれる。石列(長さ約1・1メートル)も、曲輪付近で検出された。

 長浜城歴史博物館の森岡栄一・副参事(52)は「横山城一帯での戦いについては、文献で知られるだけだったが、今回の発掘結果は、激戦が行われたことを裏付ける貴重な物証だ」と評価している。

 鐺は26日まで市立長浜図書館(0749・63・2122)で展示されている。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20081121-OYT8T00039.htm

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2008年08月21日

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豊臣秀吉が野点楽しむ?宇治川太閤堤跡の庭園遺構から炉の跡

 豊臣秀吉が築いた大堤防「宇治川太閤堤(たいこうづつみ)跡」(京都府宇治市菟道(とどう)丸山)で、石組みの小さな池など庭園とみられる遺構が出土し、宇治市歴史資料館が21日、発表した。

 庭園は、伏見城築城直後の1594年(文禄3年)に築造が命じられた太閤堤と同時期につくられたとみられる。炉の跡も見つかり、同館は「天下統一の最中でも野点(のだて)をしていた秀吉らが茶の湯を楽しんだ可能性がある」としている。

 昨年9月に発見された石積み護岸の南約40メートルの地下約1メートルから出土した。直径20~40センチの岩を円形に積んで囲った小池(直径1・9メートル、深さ20センチ)から、西側の宇治川に向かって、小石を敷き詰めた「州浜(すはま)」が広がっていた。小池の北西には70センチ四方の石組みがあり、中が焦げていたことから炉の跡とみられるという。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080821-OYT1T00817.htm

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2008年06月06日

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旧本能寺跡に「真言」卒塔婆
信長自害の法華宗寺院

京都新聞

 京都市中京区の旧本能寺跡で昨年夏に行われた発掘調査で出土した卒塔婆(そとば)に、密教で使われる呪文(じゅもん)「真言」が記されていることが6日までに分かった。織田信長が明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」(1582年)直後に、焼け落ちた法華宗の本能寺跡で真言宗の僧が死者を供養した可能性があり、戦いの激しさや当時の人々の思いを示す貴重な遺物になりそうだ。

 発掘は昨年7-8月、関西文化財調査会(吉川義彦代表)が行い、変に伴うとみられる焼け瓦やL字形の堀跡、石垣が見つかった。

 卒塔婆は南側の堀から見つかった15本のうちの1本。長さ約40センチで五輪塔の形をしていた。赤外線撮影や文字を浮き立たせる処理を行い解読を進めたところ、「…遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)…」という光明真言が浮かび上がった。裏面には「三界萬霊十方」「眷属(けんぞく)」の文字が見え、不特定多数の死者や一族を弔ったらしい。

 吉川代表は、「日光にさらされ木がやせることによって起こる『浮き字』がなく、どこかの墓にあったものが紛れ込んだ可能性は低い。また堀の底から15センチほど上層の泥から見つかっており、本能寺の変の時期に近い」としている。

 葬送儀礼に詳しい勝田至・京都光華女子大非常勤講師(日本中世史)によると、法華寺院に他の宗派の僧が立ち入り、死者を供養することは通常考えられず、本能寺の変で寺が焼け落ちた状況以外は考えにくいという。

 勝田講師は「光明真言は天台宗でも使われるが、比叡山焼き打ちを行った信長軍を天台宗が供養することはないだろう」とした上で「信長を弔ったにしてはサイズが小さく、真言宗の僧が個人的に、敵味方を問わず供養したのかもしれない」と話している。

 光明真言 「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱える。死者を弔う呪文で、一切の罪業を除くという。

 【卒塔婆に記された文字】

 (表)□遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)  □□羅波(ラハ)…

 □ □□罪三波羅三波…

 (裏)…□三界萬霊十方□   眷属須□

京都新聞

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2008年05月25日

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行方不明だった屏風絵 狩野永徳作だった

狩野派の屏風(びょうぶ)絵で、数十年にわたり行方不明だった逸品の存在が、最近ふたたび確認された。しかも、新たに調べた専門家は、安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳(1543~90)の作と判断した。織田信長や豊臣秀吉が重用した永徳は、真筆と目される作品が約10件しか現存していない。

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見つかった狩野永徳の「松に叭叭鳥(ははちょう)・柳に白鷺(しらさぎ)図屏風(びょうぶ)」のうち左隻
http://www.asahi.com/culture/update/0523/images/TKY200805230320.jpg
見つかった狩野永徳筆の「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」のうち右隻
http://www.asahi.com/culture/update/0523/images/TKY200805230321.jpg
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 見つかったのは、六曲一双(6枚折りの屏風が左右1隻ずつ対となる)の「松に叭叭(はは)鳥(ちょう)・柳に白鷺(しらさぎ)図屏風」。右隻は、渓流のほとりに松が太い根を張り、黒い叭叭鳥(水墨画などによく描かれた鳥)が13羽。左隻はやはり太い幹の柳と池、それに16羽のシラサギが配されている。両隻とも水墨画で、高さ160.5センチ、幅約350センチ。墨の色も濃く、力動感あふれた作風だ。

 もとは、実業家で古美術品収集家としても知られた原三渓(1868~1939)の所蔵品で、当時は永徳の祖父・元信(1476~1559)作の「鷺烏(ろう)図屏風」と考えられていた。原の所蔵品売り立て目録「松風閣蔵品展観図録」に写真が載り、その後は数十年、在りかが分からなかった。

 辻惟雄(のぶお)・東大名誉教授(日本美術史)は約40年前から、写真しか手がかりのなかったこの作品を、元信でなく永徳の作だと推測していた。最近になって、古美術商から情報がもたらされ、都内の画廊でついに作品と対面。樹木の根や岩の描き方など、作風から、やはり永徳と判断した。

 永徳には京都府・大徳寺聚光院に残る国宝「花鳥図襖(ふすま)」がある。今回の屏風はよく似た作風から、辻さんは、それより少し若いころの制作と推定している。

 作品は7月8日から東京国立博物館平成館で開く「対決―巨匠たちの日本美術」展に出品されることが決まった。
http://www.asahi.com/culture/update/0523/TKY200805230315.html

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2008年03月04日

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新説「本能寺の変」名場面はウソ? 信長、宿泊は専用御殿
産経新聞

 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。

 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。ドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が出てきた。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものと分かった。

 今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺がよそに移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には、「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080304-00000056-san-soci

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2008年03月03日

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なぜこれほど不用心だったのか…信長の個性裏付け

戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。

 「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。それと遺物、とくに瓦の量などから大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないでしょうか」

 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は、こう話す。遺構の伸び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。この場所に、信長の御殿があったことは疑いないという。

 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。圧倒的な兵力(1万3000人)の明智軍を前に、信長はあっけなく自害。戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったということのようだ。

 それにしても、信長はなぜこれほど不用心だったのか。今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が叛くとは、考えてもいなかった」とみている。光秀の謀反の理由については、(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆(そそのか)された-などの説が唱えられている。

しかし、今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨(えんこん)説は考えにくいとする。やはり、本能寺に少人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と、決断したとみている。

 また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。(1)関白(2)征夷大将軍(3)太政大臣-の3説があるが、今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。一方、脇田修・大阪歴史博物館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」とみている。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031414006-n1.htm

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信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説

「本能寺の変」(1582年)のおり、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったいう新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。テレビドラマで繰り返し放送される、大きな本堂前で奮戦する信長は虚像とわかった。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある「■(能の異体字)」の文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものとわかった。

 信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、信長は「変」の2年前にあたる天正8(1580)年2月、京都での宿舎を妙覚寺から本能寺に移すことを決め、所司代の村井貞勝に普請を命じた。

 本能寺を始めとする日蓮宗寺院は、「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」(1536年)をきっかけに京都から追放されたのが許され戻ってきたばかりで、本能寺も「信長軍に占拠され、寺僧はすべて追放されていた」とする意見も出されていた。

今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺が他所に移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

 権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)や徳川家康の二条城などが有名。これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠を移そうと意図していたと推測している。

 小島道裕・国立歴史民俗博物館准教授(日本中近世史)の話 「信長が本拠を安土から大坂に移そうとしていたのは、後継者の秀吉が大坂城を築いたことからも可能性が高い。京都については、あくまで臨時の宿舎なので、小規模だったのだろう。興味深い説と思う」

 本能寺の変 甲信から京都にかけてを制圧した信長は天正10年5月29日、中国攻めのため、わずかな供を連れ京の宿所だった本能寺に入った。6月2日未明、明智光秀の軍1万3000人が急襲、信長は妙覚寺にいた長男・信忠とともに討たれた。信長49歳。天下統一の業は秀吉に受け継がれた。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031411005-n1.htm

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2008年02月09日

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安土城の石垣沿い通路は城内だった 2カ所目の「虎口」発掘
中日新聞

 織田信長が築いた安土城(安土町、東近江市)の城跡南側の石垣から、城郭の出入り口「虎口」の遺構が新たに確認され、県安土城郭調査研究所が8日、発表した。近くで昨秋見つかった虎口と同様、防御性は低く、研究所は「石垣に沿った通路は、家臣らが使った城内路であったことを裏付ける発見」としている。

 研究所によると、虎口の遺構は幅約4・5メートル、奥行きは約4メートル。幅約90センチの石段が3段あり、大手門と西側の百々橋口のほぼ中間に位置している。東側に幅約30センチの石組み側溝があり、南側通路の側溝につながっていたとみられる。

 虎口は廃城後、畑になっていた場所の土留め石を取り除き、築城時の石積みを再現する工事の過程で出土した。昨秋、約23・5メートル西で見つかった虎口とほぼ同規模だった。

 これら2つの虎口が確認されるまでは、石垣が城域の南端で、石垣沿いの通路(長さ約400メートル、幅約6メートル)は商人や庶民らが通行した城外路だったとみられていた。

 ところが、これらの虎口は礎石の規模などから敵の侵入を防ぐ「枡(ます)形虎口」ような重厚な造りではないことが判明した。

 研究所は「通路は武士や家臣らが使った城内路だった」と結論付けた上で、近世城郭と同様、内堀が外郭であったとみている。

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080209/CK2008020902086160.html

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2008年02月08日

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安土城の全容解明は後世に
08年度で調査終了、史跡の8割残す
京都新聞

 滋賀県安土町にある国の特別史跡安土城跡の調査・整備事業が2008年度で終了する。これまでに調査が終わったのは史跡指定面積の2割で、織田信長が天下布武の拠点として築いた城の全容解明は後世に託されることになった。

 発掘調査を担当してきた県安土城郭調査研究所は「調査を続ければまだ明らかになることも多かったはず」と落胆している。

 安土城跡の調査・整備事業は1989年度から20年計画で始まった。天主跡や大手門周辺、伝羽柴秀吉邸跡などの屋敷地などを調査、整備し、城の基本構造が次第に明らかになってきた。

 同研究所によるとこれまでに調査、整備を終えたのは史跡指定面積96ヘクタールのうち約17ヘクタール。眺望が開ける八角平は手つかずのままで、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書き記した山中の庭園の有無も確認できていない。主郭部のとりで3カ所も未調査だ。

 すべて整備を終えるには50年から100年は必要といい、財政構造改革を進める県は、計画の最終年度となる2008年度以降は事業を継続しないことを決めた。

 史跡近くを通る県道の改良工事に伴い、信長が京都に上るため整備した「下街道」の発掘調査などの将来構想もあったが、実現の可能性は不透明という。

 同研究所の近藤滋所長は「この20年で基本構造が分かり、ほかの城と比較できるようになってきた。こんな状況だから仕方ないが、防御の遺構などを整備できず、県民の期待に応えることができないのは残念」と話している。

 安土町の津村孝司町長は「やり残したことがたくさんあると聞いている。やがてまた再開できる時が来ると期待している」としている。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020800153&genre;=M2&area;=S00

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2008年02月05日

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新名神に「穴太積み」
甲賀 コンクリ壁の強度上回る

新名神高速道路沿いの東海自然歩道に築かれた穴太積みの石垣(写真:甲賀市甲南町)
 23日に部分開通する新名神高速道路の建設に伴い、滋賀県甲賀市甲南町と水口町の区間脇に付け替えられた東海自然歩道沿いの壁に、大津市坂本に伝わる「穴太(あのう)積み」が採用された。織田信長が築城した安土城など、全国の名城でみられる強固な石垣として知られるが、京都大学大学院などによる施工前の耐力実験で、コンクリートブロック壁の強度を上回るとの初のデータも得られた。伝統技術を継承する「穴太衆」として施工した職人は「先人の技術の高さが立証された」と感慨を深めている。

 新名神は県立自然公園内を通るため、西日本高速道路大津工事事務所が、自然環境との調和などを狙いに穴太積みに着目した。現在残る唯一の穴太衆として全国の城壁修復を手掛ける大津市坂本3丁目の粟田建設(粟田純司会長)が、工事で出た花こう岩を再利用し、2004年3月、高さ3・5メートル、長さ260メートルの石垣が完成した。

 穴太積みは自然石を積み上げ、石垣奥に小さな「栗石」を大量に入れて強度と排水性を高めるのが特徴。目地に詰め物をしない空積みという高速道路工事では珍しい工法になり、安全性を立証するため耐力実験が必要になった。

 現場に高さ3・5メートル、幅8メートルの石積みとコンクリートブロック壁を造り、上部と背後から装置で圧力をかけた。ブロック壁は200トンの圧力で亀裂が入ったが、穴太積みは十数センチのせり出しがあった程度。230トンでブロック壁は壊れそうになり実験を中止したが、穴太積みは250トンの圧力でも持ちこたえ、十分な強度や耐震性があることが裏付けられた。

 東海自然歩道は信楽インターチェンジに近く、重厚な穴太積みはハイカーらの目を引きそう。穴太衆十四代目の粟田純司会長(67)は「耐力実験は初めてだったが『石の声を聴き、石の行きたがるところへやれ』との言い伝えを守った石積みには自信があった。今後は城の修復だけでなく、実験データを基に近代的な建造物にも仕事を広げたい」と話している。

 ■穴太衆 古墳時代(3世紀末-7世紀)に大陸から渡来し、比叡山麓(さんろく)の大津市穴太あたりを本拠とした石工集団がルーツとされる。比叡山の石垣構築や修理を担い、戦国時代、全国各地の城郭の石垣づくりで名をはせた。諸説あるが、西日本を中心に現存する全国の城のおよそ8割を手掛けたという。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020300035&genre;=K1&area;=S10

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2008年01月20日

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信長像迫る 収蔵品205点
家康への文書や画

県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で19日、企画展「信長と安土城―収蔵品で語る戦国の歴史」が始まった。安土を拠点に天下統一を目指した織田信長の事績などについて、205点の収蔵品を前・後期に分けて公開する。

 1992年11月に開館した同館の15周年を記念して企画した。前期(2月24日まで)では、浄厳院(安土町)が所蔵する黒の束帯姿で右手を笏(しゃく)の上に乗せた「織田信長画像」や、10年ぶりに一般公開されたビロード地に金糸で織田家の家紋と龍が描かれた信長所有の陣羽織のほか、長篠の合戦後、信長が徳川家康に送った文書などが並び、信長ファンらを楽しませている。

 観光で訪れたという川崎市中原区、主婦清水朱美さん(61)は「もし、本能寺の変で信長が死ななければ、世の中はずいぶん変わっていたと思うと興味が尽きない」と話していた。

 20日には同館学芸員が「信長文書を読む」、2月17日は「絵図・地図で見る今昔」と題して講座を開く。いずれも午後1時30分~3時で、無料。定員140人(先着順)。

 3月30日までの午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)。大人350円、高校大学生250円、小中学生150円。月曜休館(祝日の場合は翌日)。問い合わせは同館(0748・46・2424)。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20080119-OYT8T00670.htm

期間: 平成20年1月19日(土)~3月30日(日)
開館時間: 午前9時~午後5時 (ただし入館は午後4時30分まで)
入館料: 大人350円(280円)高大生250円(200円) 
小中生150円(120円)
※( )は20人以上の団体料金です。
※「信長の館」との共通券もあります。
休館日:月曜日(祝・休日を除く) 
但し、2月11日(月)は開館し2月12日(火)は休館します。
主な展示資料(◎は重要文化財、□は県指定文化財、△は市町指定文化財)

◎鉄鐔(摠見寺蔵)・△織田信長像(摠見寺蔵)・六角義賢書状・□六角氏式目(個人蔵)・□崇永版大般若経(正禅寺蔵)・近江堅田関係書状集・織田信長判物・安土記・伝織田信澄所用鎖帷子(個人蔵)・勝楽寺文書・豊臣秀吉画像復元模写(原本:多賀大社蔵)・長篠合戦図・安土城跡出土鯱瓦片・徳川家康画像・近江膳所城絵図・金沢城内絵図・□竜王町左右神社文書(左右神社蔵)△安治区有文書(安治区蔵)・□霊仲禅英墨蹟(曹源寺蔵)など200点余を前後期に分けて展示します。
http://www.azuchi-museum.or.jp/

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2007年12月28日

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信長の「敦盛」、福岡の幸若舞保存会が4年がかりで復元

 「―人間五十年、げてんの中(うち)をくらぶれば……」と、織田信長が桶狭間の戦いの前に舞い謡ったとされる幸若舞の敦盛。節回しがわからず「伝説の舞」とされてきたが、国内で唯一、幸若舞を伝承している福岡県みやま市瀬高町の幸若舞保存会(会長=松尾正巳第30代家元)が4年がかりで節をつけ、来年1月20日、同市の大江天満神社で初披露する。

 復元作業の中心となったのは第27代家元の江崎恒隆さん(77)。町に合併話が持ち上がり、「合併すれば伝統芸能が廃れてしまう」と危機感を持ったのがきっかけ。敦盛は能の舞台では演じられるが、「人間五十年……」の謡い回しがなく、動きも幸若舞とは異なる。敦盛をよみがえらせ、幸若舞の保存活動の後押しにしたいと考えた。

 幸若舞は口伝のため、台本は残っていても節回しの手がかりはない。ただ、戦いの場面では速いテンポで勇壮に声を出すなど、場面や感情によって節回しが共通という特徴があった。このため現存する8曲から似たような情景、感情に使われている節回しを探し、一つずつ当てはめていった。

 だが悲哀、恋慕などの表現には多様な節回しが存在し、作業は難航。地道な作業の末、7月に完成した。

 江崎さんは「『敦盛を見たい』という期待の声にやっと応えられる」と連日、練習に励んでいる。本番で舞う松尾さんは「節回しに違和感はなく、信長が舞い謡ったものだと自信を持っている」と胸を張る。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_07122855.htm

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2007年12月27日

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旧本能寺の建物跡が初出土 周辺からは「変」の焼土
朝日コム

 織田信長が明智光秀の謀反で自害に追い込まれた「本能寺の変」(1582年)の舞台になった旧本能寺跡(京都市中京区)で、建物の痕跡が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が26日、発表した。建物の痕跡の発見は初めてという。

 マンション建設に伴う約100平方メートルの発掘調査で、16世紀中頃の建物の柱の礎石を支えたとみられるこぶし大の石が数十個集まった「集石(しゅうせき)」が3カ所で見つかった。集石は約2・4メートル間隔で、何らかの比較的小さな建物があった可能性が高いという。近くから同時代の土器のほか、寺跡内の別の場所でも見つかっている本能寺の変で焼けたと推測される壁土や、寺の銘入り軒丸瓦1点も出土した。

 また、約70メートル南東の別の調査地で寺の南端を示す堀の跡も見つかった。南端は文献によって食い違っていたが、これでほぼ特定できるという。

 本能寺の変の様子は文献で描かれているが、寺の伽藍(がらん)配置はわかっておらず、調査員は「不明な点がまだ多いが、今後の調査につながる成果だ」と話している。

 本能寺はたび重なる火災で場所を変え、1545年に今回の調査場所の付近に移った。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200712260069.html

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2007年12月26日

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本能寺跡で堀の一部見つかる
NHKニュース

織田信長が明智光秀に攻め滅ぼされた京都の本能寺の跡から、戦乱に備えて整備されていたとみられる堀の一部が見つかりました。本能寺の周りに堀があったことは当時の文献にも記されていますが、実際に確認されたのは初めてです。
http://www3.nhk.or.jp/knews/news/2007/12/26/t20071226000120.html

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2007年12月18日

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16日に終了したNHK総合の大河ドラマ「風林火山」の年間平均視聴率が18・7%(関西地区は15・9)だったことが17日、ビデオリサーチの調べで分かった。最高は22・9%だった。ドラマは戦国時代の軍師・山本勘助の夢の野望を描いた戦国ロマン。平均視聴率は2年ぶりに20%を割り込んだが、合戦シーンが放送された回は軒並み20%を超えた。若泉久朗チーフプロデューサーは「従来の大河ドラマ以上に、男性の支持が高かったことや、特に10代が視聴したNHKでも数少ない番組だったことが特徴」とコメントしている。(数字は関東地区)
http://www.daily.co.jp/gossip/2007/12/18/0000774317.shtml

結構盛り上がっている感があったのに、
意外と少なかったですね。
Gacktが出てなかったらどうなってたんでしょうか!?

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兼松家に伝わるアシの門松お目見え 東山植物園の武家屋敷門
中日新聞

 正月準備が進む東山植物園(名古屋市千種区)の武家屋敷門に17日、尾張藩士兼松家に代々伝わっていたアシの門松がお目見えした。1月14日まで見ることができる。

 門松は1570年の姉川の合戦に織田信長軍の一員として従軍した兼松又四郎正吉が、陣中で正月を迎えた際に、河原に生えていたアシで臨時にこしらえて武運を祈ったのが始まりという。武家屋敷門はもともと東区内にあった兼松家の木造長屋門で、1967年に同園へ移築された。以来、兼松家で代々、アシの門松を飾っていた習慣を受け継ぎ迎春の雰囲気づくりに一役買っている。

 高さ約6メートルの真竹を中心に周囲に約3メートルのアシ約100本を束ね、しめ縄で結んでいる。根元には白い寒水石を配した。園職員が5人がかりで約2時間で飾り付けた。近年入手が難しくなっているというアシは木曽川立田大橋付近で採集したもの。
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071218/CK2007121802072962.html

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2007年12月17日

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「山本勘助」実在の証し、釧路で市河文書公開展
釧路新聞

  「武田信玄の幻の軍師」とされてきた山本勘助の実在が初めて確認された釧路市指定文化財「市河文書」が15日、釧路市内で一般に初公開された。個人の所蔵で、今回は指定文化財19点のうち18点を含む、40点が展示されている。市河文書は中世北信濃の武士市河家の文書で、山形県酒田市の本間美術館に146通が所蔵され、国の重要文化財に指定されている。市河家は武田、上杉家に使え、明治期に厚岸町太田に屯田兵として入植、昭和に釧路にやってきた。釧路市河文書は山本勘助の名が記された武田晴信(信玄)書状、武田家朱印状、上杉景勝書状など戦国時代をいきいきと語る文書が含まれている。展示は24日まで。
http://www.news-kushiro.jp/news/20071216/200712161.html

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能美の西山古墳群 砦跡発見 織田の陣城か 
中日新聞

中世墓、弥生の遺構も
複合遺跡裏付け
 能美市の国指定史跡・秋常山古墳群東側に広がる西山古墳群の一部で、弥生時代の遺構や鎌倉時代の中世墓、戦国時代の砦(とりで)跡などが見つかった。本年度から実施した詳細分布調査で明らかになった。いくつかの時代にまたがる複合遺跡であることを裏付ける貴重な史料になる。 (田嶋豊)

 十五日に現地説明会があり、学芸員らが考古学愛好家らに調査経過を中間報告した。

 砦跡などが見つかったのは、西山古墳群の南尾根の一角。この一角には昭和三十年代から四十年代の踏査で二つの古墳があるとされていたが、今回の調査で古墳ではなく山城の一部であることが分かった。

 市学芸員によると、山城は曲輪(くるわ)や高さ一・五メートル前後の土塁、切岸などを備えている。小規模で簡易的なつくりであることから、短期決戦を目的とした臨時的な砦だったとみている。

 戦国時代末期に加賀国へ進出し、上杉謙信と手取川で対峙(たいじ)した時に築かれた織田軍の陣城、もしくは近くの和田山城に築城した一向一揆軍を攻めるのに築いた織田軍の陣城だった可能性があるという。

 同所からは弥生時代終末期の土壙(どこう)墓や柱穴と思われる遺構なども見つかった。土塁をつくるために使われた盛土から素焼きの陶器が大量に出土。珠洲焼片や河原石もあり、鎌倉時代を中心とした中世墓とみている。

 西山古墳群は徳久、高座、秋常の三町内にまたがる丘陵上に分布する古墳群。二〇〇九年度まで部分的な発掘調査を含め、規模の確認や歴史などを明らかにしていく。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071216/CK2007121602072651.html

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2007年12月15日

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和央ようか「幸せを感じながら現場にいた」『茶々 天涯の貴妃』ついに完成披露

戦国の世を凛とした強さと美しさを持って駆け抜けた茶々。彼女の激動の生涯を描いた『茶々 天涯の貴妃(おんな)』の完成披露試写会が12月13日(木)に行われた。上映前の舞台挨拶に主演の和央ようかと橋本一監督が登壇。シネマカフェで展開中の特集「CHACHA美人入門」で読者モデルを務める「CHACHA美人」4人から和央さん、橋本監督への花束の贈呈が行われるなど会場は大きな盛り上がりを見せた。
cinemacafe

客席後ろから赤い着物姿の和央さんが登場すると客席からは大きな歓声がわき起こった。和央さんは「心を込めて演じさせていただいたこの作品が、初めてみなさんに観ていただけるということに誰よりも緊張しています」と挨拶。すでに完成した作品を観たという和央さんだが「多くの人の愛を感じながら撮影に臨んでいた日々を思い出して、冷静に観ることができなかったです。これからもう一度じっくり観ようと思います」と笑顔で語った。現場の様子について訊かれると「スタッフのみなさんが本当にかっこよくて『この方たちに支えていただいてお仕事ができるって幸せだなぁ』と思いながら現場にいました」とふり返った。監督によると和央さんはいつも現場で「私を起用して後悔してるでしょ?」、「もう二度と私と仕事したくないでしょ?」と監督に言っていたとか。監督が「この場を借りて言わせてもらいますが、全くそんなこと思ってません。和央さんで良かったと心から思ってます!」と言うと会場からは大きな拍手が。和央さんは「良かったぁ…。この場で『あなたとは二度と…』って言われたらどうしようかと思いました」と笑顔を見せた。
和央さんにとって女性役を演じるのは初めてだったが、橋本監督は「実際に始めてみると本当に女性らしい方でした。逆にこれまで培ってこられた雄々しい部分も随所に見せてくれまして、僕は現場でしびれました」と語った。そして話題を呼んだ本作のポスターについて触れ「日本であのかっこよさを出せるのは、僕が知る限り和央さんだけ」と称賛した。

続いて行われた花束の贈呈では、シネマカフェで展開中の特集「CHACHA美人入門」で、茶々のように強く美しい女性を目指す“CHACHA美人”として華道やテーブルマナー講座を受講している4名の女性がプレゼンターを務めた。さらに、癒しキャラとして人気の“お茶犬”とのコラボレーションで誕生し、和央さん自らがプロデュースに参加した本作の応援隊長“茶々犬”も登場し会場をわかせた。最後に和央さんは「これまで、男性用の衣裳しか着たことがなかったのですが、今回演じた茶々の衣裳は本当に重かったです。ですがその重みに幸せを感じていました。2か月間、茶々を演じましたが最高のスタッフ・共演者の方々とご一緒できて本当に嬉しく思っております。観ていただいたみなさんがこの作品から何かを感じていただければ、と思います」と語り、舞台挨拶を締めくくった。『茶々 天涯の貴妃(おんな)』は12月22日(土)より全国東映系にて公開。
http://www.cinemacafe.net/news/cgi/report/2007/12/3042/

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2007年12月14日

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日本刀禁止法策定へ=英政府
 【ロンドン11日時事】11日付英大衆紙サンは、同国政府が日本刀禁止法を策定する方針だと伝えた。国内での製造、輸入ともにすべてできなくなる。
 同紙は社説で「サムライ・ソード(日本刀)は、人を効率的に殺すためだけの目的につくられ、悪用されれば銃と同じくらい危険だ」と指摘、犯罪使用による犠牲者を防ぐ必要があると強調した。政府統計によると、日本刀は2003年以来100件の犯罪で使われ、少なくとも6人が殺害されたという。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k;=2007121100936

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2007年12月13日

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信長の庭園に長良川の石使用? 岐阜公園の居館跡に造園
中日新聞

長良川の河原石を敷いてつくったとみられる織田信長の庭園跡=岐阜市の岐阜公園で
写真

 岐阜市の岐阜公園で発掘された戦国武将、織田信長の庭園とみられる遺構の石敷きを岐阜市教育委員会が調査した結果、長良川の河原石である可能性が高いことが分かった。河原からわざわざ石を運び込んでいることから、市教委は遺構が庭園である有力な裏付けになると判断している。信長の庭園の遺構は全国に例がないという。

 現場は岐阜公園内の金華山のロープウエー乗り場東。地中約50センチの粘土に埋まって、砂岩39個、流紋岩26個、安山岩8個が密集しているのが見つかった。

 市教委がこれらの石を調べたところ、安山岩は長良川の石と特徴が同じと判明した。また石敷きよりさらに深い地層では焼土と炭を発掘。市教委は、1567年に信長が当時の稲葉山城を攻略した後、新たな居館や城下町の整備を進める中で、長良川の石を運んで庭園を造ったとみている。

 信長の庭園は当時のポルトガル人宣教師が居館の付近にあったと記録。発掘調査現場では当時の大通り「大道」や茶室、蔵とみられる遺構も出ている。市教委の高橋方紀主任は「信長の居館跡を特定する手掛かりになる」と話している。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007121302071704.html

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2007年12月12日

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信長居館の茶室か蔵の跡? 焼土と礎石発見
岐阜新聞

壁土や礎石など火災で焼けた建物跡が見つかった発掘調査現場=岐阜市槻谷
写真

 岐阜市教育委員会は10日、同市大宮町の岐阜公園で実施している織田信長の居館発掘調査で、戦国時代と見られる地層から焼けた壁土と礎石を見つけた、と発表した。茶室か蔵の建物跡の可能性が考えられるといい、市教委は「信長居館の全貌(ぜんぼう)を解明する上で大きな発見。さらに調査し、居館本体との関連や全体的な建物の配置を明らかにしたい」としている。

 今回調査したのは、信長居館の最奥部に位置すると想定される金華山ロープウェー山麓駅の南東部分の山中で、計約50平方メートル。9月下旬から発掘を始めたところ、幅2メートル、長さ6メートルにわたって掘り進めた地点から、約60センチの厚さに堆積(たいせき)した焼土層を確認。その下からは、薄い炭の層と幅25センチほどの礎石1基を見つけた。焼土層の多くは、わらなどでできた厚さ6、7センチの壁土だった。

 年代を特定する遺物は発見できなかったが、地層の状況などから、焼土は1600年に、関ケ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災を受けたものと考えられるという。礎石が比較的小さく、壁土が通常より分厚いことや、場所の性格などから、茶室か蔵の建物跡と考えられ、今回の調査現場よりもさらに下の平坦地に居館本体があった可能性が高いという。

 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長居館の上層階について「3階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下がある」などと記述しており、信長居館発掘調査専門委員会の中井均さん(米原市教育委員会)は「まさに(この記述を)ほうふつとさせる遺構」と指摘。大阪市立大学の仁木宏准教授も「奥座敷のような場所に戦国時代の建物があったことが確認でき、大量の焼土、壁土も驚くべき発見」と評価した。

 市教委は、来年度も引き続き調査を続け、建物の性格や範囲などを明らかにしたい考え。22日午後1時から現地説明会を開く。同発掘調査は、居館本体の建物位置や構造を明らかにするため、今年6月から3地点で順次実施してきた。既に調査を終えた2地点からは戦国時代の大通りと庭園の一部と見られる遺構が発見されている。
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20071211/200712111049_3545.shtml

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2007年12月11日

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信長の茶室か、礎石発掘 岐阜公園の居館跡、蔵の可能性も
中日新聞

地中から発掘された、茶室か蔵の跡とみられる礎石=10日、岐阜市の岐阜公園で
写真

 岐阜市の岐阜公園で戦国武将、織田信長の居館跡の発掘調査を実施している同市教育委員会は10日、建物の柱を立てるための礎石を発掘したと発表した。茶室か蔵があったとみられ、居館跡の特定につながる可能性もあるとしている。

 現地は金華山西側のふもと標高40メートルの斜面。11月上旬に地中1メートルに埋められた長さ25センチの石を発見した。石は角がない河原石で、表面が平らなことから、柱を立てた礎石だと判断した。

 戦国時代に居館を訪れたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスは、居館の上の斜面に茶室があったとの記述を残した。礎石が見つかった場所は居館があったと考えられる区域の上の斜面に当たり、礎石は茶室跡の可能性がある。同時に居館跡を特定する手掛かりとしても注目される。

 礎石の上からは焼けた土の層(厚さ60センチ)を発掘。赤く焼けた壁土が大量に交ざり、蔵があったとの見方も浮上した。蔵だとすれば、周辺から貴重な宝物が見つかる可能性もあるといい、今後、建物の特定に向け調査を続ける。

 22日午後1時からは現地説明会を開く。これまでに城下町にあった大通り「大道」や、庭園とみられる遺跡を発掘した。

 織田信長や豊臣秀吉時代の城などの建築物に詳しい織豊期城郭研究会(大津市)の中井均代表は「大きな建物と比べると、今回見つかった礎石は小さい。まずは茶室か、休憩所である東屋(あずまや)が考えられる。ただ、茶室や東屋は土壁を必要としないので、茶室と蔵の両方があったのかもしれない」と推論した。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007121102071133.html

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2007年12月09日

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加古川城にも「のこぎり横町」 姫路の研究員が確認
神戸新聞

 戦国時代「賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」の一人として、豊臣秀吉に仕えた播磨の武将糟谷(かすや)武則(たけのり)。その居城「加古川城」があった今の加古川市加古川町かいわいで、城下町の痕跡を今に伝える「のこぎり横町」の地割りが見つかった。姫路市立城郭研究室技術主任、多田暢久さん(42)の調査で明らかになったもので、多田さんは「城下町・加古川というこれまで想像しにくかった町の姿が浮かび上がってくる」と話している。(三津山朋彦)

 見つかった地割りは、通りに面した住宅の間口をギザギザにしたもので、侵入してきた敵を建物の壁に隠れて迎え撃つために造られたといわれる。多田さんによると、このギザギザの地割りは城下町の特徴の一つで、兵庫県内では姫路市の「のこぎり横町」などに見られるという。

 加古川では、城域を東西に横切る山陽道の両側付近二カ所に見られ、防衛上の役割を果たしていたと考えられる。

 多田さんは加古川市在住。加古川城跡と伝えられる称名寺(同市加古川町本町)周辺の地籍図を調査したところ、明治時代作製と思われる図に「城ノ開地」と記されていた。寺の周囲には堀が残り、城の内堀に似た構造を示していた。

 また、寺の西側から水路が北西に延び、現在の国道2号を越えて日本毛織の敷地内に及び、そこから南東に折れて、寺家町と本町の町境沿いに南下していた。この城の外堀と思われる水路の一部は現存し、当時の名残をとどめていた。

 多田さんは、戦国時代の築城法から外堀の内側に城下町が広がり、市場や住居が立ち並んでいたと推定。細かく地籍図を見ていくと、今の寺家町商店街から西に延びる旧山陽道沿いで、道に面した住宅の間口がギザギザに記されていることが分かった。

 多田さんは「加古川は河川、陸上交通の接点で軍事上重要な町だったため、秀吉も信頼の置ける側近の糟谷武則に治めさせたのだろう」と話している。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000764227.shtml

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目玉は「大坂冬の陣図屏風」 長野県立歴史館秋季企画展
MSN産経ニュース

 武田信玄と上杉謙信がしのぎを削った戦国時代、波乱の生涯を送った信濃の武士たちに焦点をあてた企画展「武田・上杉・信濃武士」の後期展が8日、長野県千曲市の同県立歴史館で開幕した。約110点に上る展示の3分の1を入れ替えた後期展では、国宝8点と重要文化財3点を含み、「前期より見応えがある展示内容」と村石正行専門主事・学芸員。武田勝頼の血の跡が残る書状や将軍、足利義輝が長尾景虎(のちの謙信)にあてて、小笠原長時の信濃復帰を助けるよう記した書状など、国宝が間近でみられる。

 目玉の東京国立博物館所蔵「大坂冬の陣図屏風(びょうぶ)」は、年内は左半分を展示しており、年明け後は右半分を展示する。入館料は一般500円、高校・大学生250円、小中学生120円。会期は1月14日までで、休館日は10、17日と26~1月1日、7日。問い合わせは同館(電)026・274・2000。
http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/nagano/071209/ngn0712090236001-n1.htm

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2007年12月07日

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2007年最も検索された戦国武将名
by gooです。Googleではありませんw

1 [1] 織田信長
2 [5] 武田信玄
3 [7] 上杉謙信
4 [10] 真田幸村 註:正しくは「真田信繁」
5 [3] 徳川家康
6 [13] 山本勘助
7 [4] 豊臣秀吉
8 [6] 伊達政宗
9 [22] 前田利益(前田慶次)
10 [9] 明智光秀
11 [29] 直江兼続
12 [8] 竹中重治(竹中半兵衛)
13 [-] 古田重然(古田織部)
14 [40] 黒田孝高(黒田官兵衛)
15 [25] 島津義弘
16 [20] 前田利家
17 [44] 本多忠勝
18 [24] 毛利元就
19 [11] 石田三成
20 [-] 佐々成政
21 [52] 加藤清正
22 [-] 朝倉孝景
23 [-] 真田昌幸
24 [-] 北条早雲
25 [47] 宇喜多秀家
26 [27] 浅井長政
27 [2] 山内一豊
28 [57] 柴田勝家
29 [43] 今川義元
30 [19] 森蘭丸(森成利)
31 [-] 丹羽長秀
32 [-] 板垣信方
33 [42] 斎藤道三
34 [-] 小山田信有
35 [-] 細川忠興
36 [-] 北条氏康
37 [-] 松永久秀
38 [-] 足利義昭
39 [37] 武田勝頼
40 [34] 大谷吉継
41 [54] 島津義久
42 [-] 高坂昌信
43 [36] 堀尾吉晴
44 [-] 高山右近
45 [-] 島津貴久
46 [-] 甘利虎泰
47 [-] 吉川元春
48 [-] 朝倉義景
49 [-] 小早川隆景
50 [55] 最上義光

織田信長はやはり強いです。風林火山なんてそんなのかけんけーねーって感じです。
それと通常ですとかなりマイナーな武田信玄の家臣たちも食い込んでいます。
戦国BASARAと戦国無双のキャラも強いですね。

長宗我部元親がいないのは漢字が難しいから!?
[かっこ内は前年順位]
[-]は前年ランキング圏外

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2007年12月04日

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龍が如く 見参!

プレイステーション3用
2008年3月6日発売予定

■ストーリー
時は1605年の関ヶ原の戦い直後、京都の歓楽街「祇園」。主人公は「桐生一馬之介」、街の用心棒等を生業とし喧嘩には滅法強く、金さえ払えば何でも引き受け色を好む遊び人で、またの名を「宮本武蔵」。祇園では「桐生一馬之介」、祇園を出れば「宮本武蔵」としての活躍が描かれる。

■登場人物
桐生一馬之介(宮本武蔵)(声:黒田崇矢)
主人公。祇園で龍屋という店を構える男。別名「祇園の龍」。少女・遥の依頼をきっかけに大きな事件へと巻き込まれていく。

佐々木小次郎(声:松田翔太)
関ヶ原で武蔵の前に現れた最強の剣士。

鶴屋の用心棒 伊藤(声:寺島進)
桐生にとって仕事の先輩でもあり、親友と言える人物。

吉岡清十郎(声:加藤雅也)
京随一の名門剣術道場として名高い吉岡家の現当主。

祗園藤次(声:塚本高史)
剣の腕は一流だが、遊び人としても有名。

丸目長恵(声:竹中直人)
徳川家の剣士。

謎の僧(声:松方弘樹)
諸国を漫遊する僧。

吉野太夫(声:久川綾)
「太夫」と呼ばれる最上位の格を持つ遊女。

遥(声:釘宮理恵)
単身祇園にやってきて、桐生に仕事を依頼する少女。

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松田翔太、塚本高史らが「龍が如く 見参!」完成披露会に登場
TV LIFE

 12月4日、東京・品川プリンスホテルにてPS3用ゲームソフト「龍が如く 見参!」の完成披露会見が行われた。ステージ上の白幕が降ろされると、名越稔洋監督と共に松田翔太、加藤雅也、塚本高史、松方弘樹、黒田崇矢が一斉に登場した。

「龍が如く」は、過去2作品で累計170万本もの売り上げを記録した大ヒットシリーズ。戦国時代を舞台とした今作は“侍の魂”、“日本人の心”をテーマとし、ドラマ性のあるストーリーにも力を入れている。

 声優だけでなく、ゲームのキャラクターとしても出演となった今回のキャスト。佐々木小次郎役の松田は「想像以上にリアルでした。でも、(その中に)自分らしさがちゃんと入っていたのでうれしかったです」と画像の美しさに驚きの表情。実際にステージ上でゲームをプレイした塚本は、監督を驚かせるほどの腕前で、「刀を使えるのが前作との違いですね。気持ちいいですね」と笑顔で感想を。また、オープニングテーマ曲を歌うZEEBRAと、花魁の艶やかな衣装のインリン・オブ・ジョイトイ(滝の煩悩役)も後に登場し、会場を沸かせた。
「龍が如く 見参!」は08年の3月6日(木)発売。カップ麺やオリジナルデザインのジュエリーやTシャツ、さまざまな関連商品も発売されることが決定している。
http://www.tvlife.jp/news/071204_02.php

龍が如く 見参!オフィシャルサイト

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2007年12月03日

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ゲームの影響? 戦国武将にはまる女性たち
ITmedia

戦国武将が若い女性の間でブームに。武将をモチーフにしたファッションや雑貨などが売れ、同人誌即売会も盛況。「女性にとって戦国武将は自分の代わりに夢を実現してくれるヒーローに映っているようだ」というのだが……

戦国武将について書かれた本を手にする女性たち。写真右側には武将らの家紋入りグッズがある=東京・神田小川町の「時代屋」 武田信玄に伊達政宗… 名をはせた戦国武将が、若い女性の間でブームになっている。武将をモチーフにしたファッションや雑貨などが売れ、武将グッズを扱うイベントも開かれて盛況という。壮年男性の独壇場とみられていた戦国モノだが、女性にとって戦国武将は自分の代わりに夢を実現してくれるヒーローに映っているようだ。

 「天才軍師、真田幸村の家紋の六連銭が格好いい」「私は男気のある上杉謙信が好き」

 先月16日から18日、東京・代官山の展示スペースで開催されたイベントで若い女性たちが、歴史談議に花を咲かせた。

 イベントは戦国武将をモチーフにしたグッズなどを紹介する「天下『布』武プロジェクト 戦国ART祭」。来場者の大半が10代半ばから20代後半の女性。武将の人形や家紋を入れたニット帽、Tシャツなどを見ては歓声を上げていた。

 東京都小平市の専門学校生、田尻佳代さん(24)は伊達政宗の大ファン。「したたかに戦国を生き抜き奮闘しながらも、時代を楽しむ姿が好き」と魅力を話す。

 なぜ、戦国時代が女性を引きつけるのか。歴史関連イベント企画業「六龍堂」代表、早川知佐さん(30)は「ゲームソフトの影響が大きい」と指摘。「武将になって戦場で戦うアクションゲームソフト『戦国BASARA』や『戦国無双』が女性にも人気で、はまるようだ」と話す。

 登場人物の声優のファンになるほか、歴史上の武将が美形に描かれ、史実ではありえない武将同士が戦うなどゲームならではの面白さも理由だという。

 ゲームにはまった女性たちは、お気に入りの武将の関連グッズや本にも関心を持ち始める。

 書籍のほか戦国グッズも扱う東京・神田小川町の「歴史時代書房 時代屋」は毎週末、若い女性でいっぱい。来店していた東京都大田区の会社員、佐々木千絵美さん(22)は「戦国武将は潔く、男気があるのであこがれる」。角英憲店長(34)は「家紋入りタオルなどオリジナルグッズの10月の売り上げは前年の1.3倍。武将をテーマにした本の売り上げもアップしている」。

 ファッションにも戦国ブームが及ぶ。今年8月、東京・原宿に開店した戦国グッズ店「もののふb6丸」では、戦国武将の漫画が描かれたTシャツやジャケット、家紋入りアクセサリーなどが人気。田中秀樹店長(36)は「若い女性客が全体の6割」という。

 11月11日に東京・有明の「東京ビッグサイト」で開かれた戦国時代関連の同人誌即売会には全国から8000人が集まった。主催者によると、7割が女性で、武将になりきったコスプレ姿の若い女性も多かったという。

 こうした女性たちの戦国ブームについて、精神科医の香山リカさんは「戦国武将に理想の男性像を追い求めている。ブームは時代が求めるもの。女性という立場にとらわれず、やりたいことがやれたらどんなに爽快(そうかい)かという気持ちを武将に映し出そうとしているのでは」と話している。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/03/news038.html

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2007年12月02日

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「天地人」に中山義秀文学賞
新潟日報

 新潟市出身の作家火坂雅志さんの「天地人」が1日、日本に関する歴史・時代小説を対象にした「中山義秀文学賞」に選ばれた。火坂さんは「これまで賞とは無縁だっただけに、初めての文学賞を頂けて本当にうれしい」と喜びを語った。

 同文学賞は、福島県白河市出身の小説家中山義秀を記念した文学館が開館した1993年に創設。2003年からは公開で選考会を行っている。

 13回目の今年は、「天地人」のほか、佐藤賢一さんの「女信長」、山本兼一さんの「雷神の筒」が候補となっていた。

 同市大信の大信農村環境改善センターで行われた選考会では、作家の津本陽さんら4人が審査を担当。120人の来場者を前に、3作品を講評した後、投票を行い、「天地人」が最高点を獲得した。

 受賞を聞いた火坂さんは「東国の寒い地方がこんなにすごいんだということをテーマにした『天地人』で、白河市という地方の祈りのこもった賞をもらえて光栄です」と話した。

 天地人は、本県ゆかりの戦国武将直江兼続を主人公にした作品で、2004年1月から2005年4月にかけて新潟日報朝刊に連載された。2009年に放送されるNHK大河ドラマの原作に決まっている。
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo;=64116

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名護屋城は大坂城級 規模・格式「秀吉の居城裏付け」 唐津市
西日本新聞

 佐賀県唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館は30日、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城本丸御殿跡から、計10棟の建物群の遺構が見つかったと発表した。同博物館は、建物群の規模や配置が大坂城の本丸図と類似しているとして「大坂城に匹敵する規模と格式を備えた、秀吉の居城だったことが裏付けられた」としている。

 同博物館が行った今回の調査(2004‐07年度)では、建物の礎石や通路の玉石敷を新たに発見。1996年度に確認された2棟を含む計12棟の建物群の延べ床面積は約1500平方メートルとなり、本丸の中央付近に大小の建物が密集していたことが判明した。

 中庭と思われる広い玉石敷、排水用の溝などを伴う建物もあり同博物館は「それぞれの建物は連結して機能していた」とみている。発掘調査では中国産の染付(そめつけ)磁器、土師(はじ)器の皿、上質な鬼瓦の破片なども見つかった。

 当時の名護屋城の様子を伝える「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(佐賀県重要文化財)には、本丸に書院造り風の建物が密集して描かれている。

 城跡の保存整備委員会会長の河原純之・元文化庁主任文化財調査官は「本丸に予想以上の建物があることが調査で分かった。屏風絵と方向が合致する建物もある。近世の城郭研究において、全国でも貴重な遺構だ」と話している。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071201/20071201_003.shtml

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菅公と太閤さんしのぶ
北野天満宮で献茶祭
京都新聞

京都市上京区の北野天満宮で1日、師走恒例の献茶祭が営まれた。厳かな雰囲気の本殿で、表千家家元千宗左宗匠が神前に茶を供えた。

 400年以上前に豊臣秀吉が北野で催した大茶会に由来し、茶道の発展を祈る神事。京都の茶道各家元の宗匠が毎年輪番で献茶している。「山城六郷」と呼ばれる宇治茶の代表的な産地の茶師が事前に奉納した茶を濃茶と薄茶に用いて、祭神・菅原道真と秀吉に供えた。

 境内の各所には茶席が設けられ、絵馬所では季節感や味わい深い枯淡の風情を表現した創作和菓子も展示された。近くの上七軒歌舞練場にも席が設けられ、芸舞妓が全国から訪れた門人や参拝者をもてなした。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007120100069&genre;=J1&area;=K1B

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Gackt自画自賛「狂気」の写真集
デイリースポーツ

 写真集「龍の化身」の出版記念会見を行ったGackt=都内 歌手のGackt(年齢非公表)が27日、都内で写真集「龍の化身」の出版記念会見を行った。放送中のNHK大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信を演じるガクトを野村誠一氏(56)が4カ月にわたって撮影したもの。大河ドラマで写真集が作られるのは史上初。「日本人の武士道精神を伝えたかった」と語ったガクトは表紙の川中島の合戦のシーンでは「自分で見ても気迫に圧倒される。狂気を感じる」と自画自賛。野村氏から「僕のカメラマン人生最高の瞬間」と絶賛され満足げだった。
http://www.daily.co.jp/gossip/2007/11/27/0000752688.shtml

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県立歴史館テーマ展のご案内
茨城県

茨城県立歴史館(水戸市)では、平成19年11月22日(木曜日)から平成20年1月20日(日曜日)まで、テーマ展「信長・秀吉・家康と結城水野家」「教育財団調査遺跡紹介展 発掘された茨城2007」を開催します。

 徳川家康の生母お大(伝通院)の実家である結城水野家に伝わる、信長・秀吉・家康の史料や水野家当主の肖像画などを紹介します。

 また、茨城県教育財団が平成18・19年度に調査・整理作業を実施した遺跡について出土遺物や写真パネルにより紹介します。
http://www.pref.ibaraki.jp/topics/event/20071101_01/

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2007年11月30日

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宝塚ファン悲鳴!? 元カリスマ男役トップスターが、色っぽい姫君に大変身!
シネマトゥデイ映画ニュース

2006年に宝塚を引退した元男役トップスターの和央ようかが、最新作『茶々 -天涯の貴妃(おんな)-』で、“淀君”こと“茶々”姫を熱演。「ベルサイユのばら2001」でフェルゼンを演じていた彼女の、戦国時代の姫役への大変身が、宝塚ファンの熱い注目を集めている。

 和央は、2000年から6年の間、宝塚歌劇団宙組のトップスターとして活躍したカリスマである。退団当日には、劇場周辺に何と約1万人ものファンが詰めかけ、その熱狂ぶりは、マスコミでも大きな話題を呼んだほどだった。そんな伝説的な男役の和央が、初の映画出演で演じるのは、戦国の世を生き抜いた豊臣秀吉の側室 “茶々”(後の淀君)。

 本作で、銀幕デビューを華々しく飾る和央が演じる“茶々”は、織田信長の血を受け継ぎ、秀吉に愛され、徳川家康に恐れられるという、女であることを武器に激動の戦国時代を生き抜いた女性だ。身長174センチの女優が、姫君を演じるのは異例だが、“茶々”の戦国時代でも自立した生き方は、ある女性誌の“わたしを生きている女性”にも選ばれたほど、己を強く持っている和央の人生とシンクロする。

 宝塚の歴代トップスターの中でも、伝説的な存在になっている彼女が、どんな“茶々”を演じるのか。12月の公開が待ち遠しい!

http://cinematoday.jp/page/N0012118

『茶々 -天涯の貴妃(おんな)-』は、12月22日より全国にて公開
オフィシャルサイト http://chacha-movie.jp/

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「戦国の館」苦戦“おわび” 掛川市長
静岡新聞

 掛川市の戸塚進也市長は29日の市議会行政報告の中で、掛川城天守閣近くにある観光施設「戦国の館掛川」が入館目標の半分にも達しない現状について「誠に申し訳なく深くおわび申し上げたい」と陳謝した。戸塚市長が掲げた目標は15万人だったが、25日現在、5万9300人にとどまっている。開館は12月24日まで。
 昨年、全国から30万7000人の入館者を集めた「千代と一豊館」の後継として開館した「戦国の館」だったが、入館者は伸び悩んだ。ただ、戸塚市長は「ことしの入館者は個人客が多く、商店街や城天守閣の入館増には効果があった」とも述べた。
 市は総務省から「頑張る地方応援プログラム」事業の認可により、本年度から3年間、単年度1500万円の交付税措置を受ける。戦国の館の後継は現在、市や商工、観光関係者で案を練っていて、来年1月に公表する予定。城との相乗効果が期待されるだけに、どんな“戦略”になるか注目を集めそうだ。
http://www.shizushin.com/local_west/20071130000000000038.htm

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2007年11月28日

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松岡昌宏が信玄の次は謙信で時代劇初主演
日刊スポーツ

2年前に武田信玄を演じたTOKIO松岡昌宏(30)が、今度はその好敵手だった上杉謙信を演じる。テレビ朝日の開局50周年記念新春ドラマスペシャル「天と地と」(来年1月上旬放送)が制作され、松岡が主演を務めることが27日、分かった。松岡にとって時代劇ドラマの初主演作となる。

 原作は作家海音寺潮五郎氏の同名小説。上杉謙信の生涯を描いた作品で、これまでNHK大河ドラマや角川春樹氏が製作総指揮・監督を務めて映画化もされた人気小説だ。今回のドラマでは、戦国武将の中でもミステリアスな部分が多い謙信の人物像に深く迫る。

 大胆なキャスティングも話題となりそうだ。松岡は06年、同局の新春ドラマスペシャル「風林火山」で若き日の信玄を演じた。謙信役の徳重聡を相手に、有名な川中島の戦いのシーンで見せた堂々たる演技が印象的だった。今回、謙信役で依頼を受けた時には「どうしても(信玄の)イメージが残っているのではないかと思い、正直驚きました」と戸惑ったが「両方演じられるなんて、役者としてなかなかないこと」と切り替えて出演を決めた。

 人気バンドTOKIOのメンバーの印象も強いが、俳優として時代劇の経験は豊富だ。これまで大石内蔵助の息子大石主税、足利義尚、森蘭丸、佐々木小次郎、織田信長といった人物を演じている。今回は7度目となる時代劇で初めて主演を務める。「あまり意識はしていませんが、時代劇における松岡を認めていただいたのかなという気がしてとてもうれしく思っています」と意気に感じながら取り組むつもりだ。
http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20071128-288637.html

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“和央ようか茶々”が12・3大阪城に凱旋
デイリースポーツonline

豊臣秀吉の側室でのちに淀君となる女性、茶々の生涯を描いた時代劇映画「茶々-天涯の貴妃-」(12月22日公開)のプレミアイベントが、大阪城で12月3日に開かれることが27日、分かった。

 大阪城は茶々にとって、天下を獲った秀吉とともに栄華を極め、1615年、徳川家康軍に攻められ、息子・秀頼とともに自害した因縁の場所。その地に392年ぶりに茶々がよみがえることになる。

 当日は150メートルのレッドカーペットを敷き、主演の和央ようか(37)が豪華絢爛(けんらん)な打ち掛け姿で登場。50人の甲冑(かっちゅう)武者ら豊臣の軍勢と練り歩き、戦国絵巻を再現。さらに主題歌を担当するSowelu(25)がライブで主題歌「光」を初披露する。

 イベント総額は3000万円。配給の東映は「大阪城での映画イベントで最大規模」としている。
http://www.daily.co.jp/gossip/2007/11/27/0000752702.shtml

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2007年11月27日

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“FRONTIER”シリーズのゲーミングPCに『信長の野望 Online』と『大航海時代 Online』モデルが登場!
●コーエーの人気オンラインゲーム推奨スペックモデルを追加!
 オリジナルPCブランド“FRONTIER”シリーズを展開するKOUZIROは、2007年11月27日よりコーエーの人気オンラインゲーム、『信長の野望 Online』と『大航海時代 Online』の推奨スペックモデルを販売開始した。価格は標準構成で10万9800円[税込]。

『FRCX-6550/86TX』シリーズは、CPUにインテルのCore 2 Duo プロセッサー E6550、グラフィックボードにNVIDIAのGeForce 8600GTを採用し、3DグラフィックのPCゲームタイトルが快適に動作する環境をお手頃価格で提供する。さらにメインメモリーを大容量の2GB搭載しており、オンラインゲームならではのゾーン移動時にもす速いデータ読込みが可能となっている。製品は『信長の野望 Online ~破天の章~』推奨スペックモデルの『FRCX-6550/86TX/NY』と、『大航海時代 Online ~Cruz del Sur~』推奨スペックモデルの『FRCX-6550/86TX/DJ』が用意され、それぞれに対応タイトルのクライアントソフトを収録したバンドル版DVD-ROMが付属する。また、各タイトルのバンドル版には、30日間プレイチケット(推奨PC特典スペシャルアップグレードつき)やゲーム内アイテム、オリジナル壁紙などが同梱される。

■製品概要
型番
FRCX-6550/86TX/NY、FRCX-6550/86TX/DJ
CPU
インテル Core 2 Duo プロセッサー E6550(2.33GHz/FSB1333MH)
メモリー
DDR2-SDRAM 2GB(PC-6400)
VGA
NVIDIA GeForce 8600GT
HDD
SATAII 160GB
光学ドライブ
DVDハイパーマルチドライブ
OS
Windows XP Home Edition SP2インストール済み
価格
10万9800円[税込](標準構成)

■購入特典
『信長の野望 Online ~破天の章~』推奨スペックPC購入特典
『信長の野望 Online ~破天の章~』バンドル版 DVD-ROM(ソフトパッケージ)
○30日間プレイチケット(推奨PC特典スペシャルアップグレードつき)
○ゲーム内オリジナルアイテム
・ 先駆の旗印:赤地に紅葉と“先駆”の文字を配した戦国時代風の旗。
・ 伊達者キセル:全職業が装備できる、キセルをかたどった巨大な武器。煙が出る。
・ 先駆の狩衣:全職業が装備できる、おしゃれな衣装。
○ オリジナル壁紙(1024×768ドット)2種
http://www.famitsu.com/pcent/news/1212144_1341.html

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2007年11月26日

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家康掛川城攻め「不入斗に陣」 袋井の民家に古文書
静岡新聞

 戦国時代の1569年、徳川家康が掛川城攻めのために本陣を置いた場所は、現在の掛川市の「入山瀬」説と、袋井市の「不入斗」説の2つの説がある。このほど、不入斗説の裏付けにつながる可能性が高い文言の入った古文書が袋井市国本の民家で見つかり、地元郷土史家の話題となっている。家康はどこから掛川城を攻めたのか。歴史ファンの注目も集めそうだ。
 今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後、嫡男の氏真は駿府から掛川城に逃れた。その後、家康は掛川城を攻めるが、その本陣の場所の記述は古い書物などによって2つの説がある。
 最近の「掛川市史」によれば、通説は入山瀬説だが、不入斗も昔は「いりやまず」や「いりやませ」と読まれたため、不入斗説が台頭している。
 そんな中で“新発見”となったのが、袋井市国本の無職足立徳之さん(63)宅から見つかった「北原川旧蹤」という古文書。文書の中から「徳川家康公今川を攻めるとき陣を不入斗村に取る」という文言が見つかった。
 足立さんの友人で、この文言を見つけた郷土史家の兼子春治さん(62)によると、この文書は江戸期に書かれたものを足立家の人が明治期に書き写したとみられる。文書の元が何だったかは不明だが、兼子さんは「本陣の論争に結論をつけたとも言える大きな発見」と主張する。
 この文言について静岡大学の小和田哲男教授は「『掛川市史』の執筆時から入山瀬よりも不入斗の方が位置的に陣場にふさわしいと考えていた。江戸期の伝承に文言があったというのは有力な証拠になると思う。家康の掛川城攻めの様子を知る上で注目される発見」と話している。
http://www.shizushin.com/local_social/20071126104724.htm

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2007年11月23日

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岩槻城の復元願う 築城550年を迎え市民の声高まる 市のシンボルにと市長に要望
埼玉新聞

戦国時代に築城され、室町幕府の東国支配の拠点とされた岩槻城。現在、さいたま市岩槻区内に面影を残すものはごくわずかだが、築城五百五十年を迎えた今年に入って復元を願う声が高まっている。六月には、区内の商工団体や自治会などが賛同し「岩槻城復元推進協議会」(遠藤正義会長)を設立。十月にはさいたま市長あてに復元を求める要望書を、約二万六千七百人の署名を添えて提出するなど、市民レベルでの盛り上がりを見せている。

◆太田道真・道潅父子が築城
 岩槻城は一四五七(長禄元)年、太田道真・道潅父子により築城された平城。当時、古河公方勢力に対抗していた上杉勢が、江戸城、川越城とともにほぼ同時期に築いた。

 後北条氏の支配の後、小田原城の支城となった岩槻城は、一五八九(天正十七)年の豊臣秀吉による小田原攻めにより翌年陥落。後の徳川家康の所領になる。当時は水堀に囲まれ、約九十二万平方メートルの広さだったと言われている。明治政府による廃藩後の一八七二(明治五)年、入札により民間に払い下げられ宅地化が進んだ。

 岩槻城は現在の市街地の東側に築かれ、元荒川の半島状に突き出た台地に本丸、二の丸、三の丸などがあった。北側に新正寺曲輪(しんしょうじくるわ)、南側に新曲輪(しんぐるわ)があり、西側に武家屋敷や城下町が広がっていたという。

 石垣は造られず、土を盛り上げて土塁を造る関東では一般的な城郭で、現在は南端の新曲輪、鍛冶曲輪(かじぐるわ)跡が県史跡に指定。一九九五年には後北条氏の勢力下を裏付ける堀障子が見つかっている。

◆旧岩槻市民の誇り
 現在、目に見える形で岩槻城の面影を残すものは、城址公園内に移設された「黒門」「裏門」など数えるほど。中には城があったことすら知らない市民も増えてきているという。地元・岩槻の歴史を三十年以上にわたり調査している同区東町の小宮正男さん(64)によると、岩槻城復元を願う声は一九八七年ごろ、当時の岩槻市民の間から持ち上がった。

 運動は二十年来、岩槻ライオンズクラブ内の委員会を中心に続けられてきた。「岩槻は(現在の埼玉県域の)中心地の一つとして栄えていた」という思いを残す人も多く、岩槻市がさいたま市に編入合併された一昨年には、「さいたま市のシンボルになる」として市長に復元を要望。築城五百五十年の今年、同じく市長に提出された署名には、岩槻区を中心にした法人や個人が名を連ねた。

 「二万六千人を超す署名は、それだけ市民に深い気持ちがあるということ。岩槻の歴史と文化を語り継がなければいけない」と小宮さん。岩槻城復元推進協議会の遠藤会長は「建設予定の人形会館を岩槻城にちなんだ外観にするなど、やり方はある」と実現可能な案を示す。

 旧岩槻市民が抱いている「岩槻城」という誇りをさいたま市に広げたい。復元の願いには、そんな郷土愛が込められている。
http://www.saitama-np.co.jp/news11/23/11x.html

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2007年11月20日

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安土桃山末期の強固な石垣 岡崎城(愛知)で発見、国内4番目の規模
中日新聞

徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で、安土桃山時代末期に築かれたとみられる二段になった防御用の強固な石垣が見つかった。関ケ原の戦い(一六〇〇年)以前の城郭では高さと長さでは類を見ない総石垣造りの上、石垣は天守から五百メートルも離れており、日本の城としては江戸城、豊臣政権下の大坂城、拡張を繰り返した幕末の姫路城に次いで四番目に巨大な城だったことが証明された。三日に現地を視察した城郭研究の第一人者である広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年まれにみる大発見」と注視している。

 見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。民有地で、開発に伴い市教育委員会が今年二月の試掘で石垣を確認。九月下旬から本格的な発掘調査を進めている。

 石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートルに及ぶ。総堀の内側にあった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一-二メートルの「犬走り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。

 市教委は、石垣周辺で見つかった道の遺構などとともに石垣の埋蔵状況を写真撮影して記録。調査は今週半ばまでの予定のため、既に上段の石垣は長さの三分の二程度が解体されている。

 三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣が造れず、築かれた場所は低湿地など地盤が軟弱な土地だったことから、犬走りを設けて二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこのような石垣は造っておらず、大変貴重」という。

 この石垣は天下を取った豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城主となった田中吉政(一五四八-一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。

 岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四-一六一一年)が主君家康の命で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀などの本格的な石垣は見つかっていない。

 三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。

 ■岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。中世城郭の専門の学芸員はいなく、専門家の判断を仰ぎたい。

 【岡崎城】1452(享徳元)年ごろ、三河守護代の西郷頼嗣(よりつぐ)が築城。1531(享禄4)年、徳川家康の祖父松平清康が城主となり、本格的な城郭を持つ城に改修。1542(天文11)年、家康が城内で誕生し、幼少期に人質として駿河で過ごした後、1570(元亀元)年まで岡崎城に居城、天下統一への基礎を固めた。江戸時代には「神君出生の城」として重要視されたが、明治維新後、城郭の大部分が取り壊された。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007110402061658.html


岡崎城 巨大規模だった 家康の生誕地 強固な二段式石垣発見
東京新聞

発見された安土桃山時代末期の岡崎城の中堀の2段の石垣(石垣と石垣の間は犬走りと呼ばれる)=愛知県岡崎市材木町で(写真解説文)

 徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で、安土桃山時代末期に築かれたとみられる2段になった防御用の強固な石垣が見つかった。関ケ原の戦い(1600年)以前の城郭では高さと長さで類を見ない総石垣造りの上、石垣は天守から500メートルも離れ、日本の城としては江戸城、大坂城、姫路城に次ぐ4番目に巨大な城だったことが証明された。3日に現地を視察した城郭研究の第一人者で広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年まれにみる大発見」と注視している。

 見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。開発に伴い市教育委員会が試掘で石垣を確認し、九月下旬から本格調査を進めている。

 石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートル。総堀の内側にあった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一-二メートルの「犬走り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。

 三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣が造れず、低湿地など地盤が軟弱な土地に犬走りを設け、二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこのような石垣は造っておらず、大変貴重」という。

 この石垣は豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城主となった田中吉政(一五四八-一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。

 岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四-一六一一年)が主君家康の命で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀など本格的な石垣は見つかっていない。

 三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。

保存は難しい
 岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。中世城郭を専門とする学芸員はおらず、専門家の判断を仰ぎたい。

<メモ>岡崎城 1452(享徳元)年ごろ、三河守護代の西郷頼嗣(よりつぐ)が築城。1531(享禄4)年、徳川家康の祖父松平清康が城主となり、本格的な城郭を持つ城に改修。42(天文11)年、家康が城内で誕生し、幼少期に人質として駿河で過ごした後、70(元亀元)年まで岡崎城に居城、天下統一への基礎を固めた。江戸時代は「神君出生の城」として重要視されたが、明治維新後、城郭の大部分が取り壊された。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007110502062051.html

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家康の生誕地に「しかみ像」 徳川宗家18代当主が岡崎市に寄贈
中日新聞

 徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝さんが、徳川家康の石像「しかみ像」を、家康の生誕地である岡崎市に贈った。石像が設置された同市康生町の岡崎公園竜の噴水広場で11日、徳川さんや柴田紘一市長らが出席して贈呈式と除幕式がある。

 石像は、高さ1・27メートルで、台座付き。家康の祖先・松平氏発祥の地である豊田市の松平郷、六所山から採掘された花沢小目石を使い、岡崎市梅園町の石工職人、小林道明さん(68)が1カ月半ほどかけて仕上げた。

 しかみ像は、元亀3(1572)年の三方ケ原の戦いで、武田信玄に冷静さを失って敗れた家康が、肝に銘ずるために自戒を込めて描かせた肖像画「徳川家康三方ケ原戦役画像」が基になっている。

 小林さんは、肖像画などを参考に、憔悴(しょうすい)し切った表情で、ほおづえをついて足を組む家康の姿を再現した。「顔の表情を出すのが難しかった」と話す。

 贈呈式には関係者約60人が参加予定。午後1時半からあり、連尺小学校の児童たちの「五万石太鼓」の演奏に次いで、徳川さんが柴田市長に目録を贈呈。除幕する。

 この後、徳川記念財団の主催で岡崎公園内の龍城神社で、徳川さんが「江戸の遺伝子」と題して講演する。定員150人。入場無料。
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071107/CK2007110702062368.html

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2007年11月19日

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信長の合戦とは、登別の戦国史研究家が講演
室蘭民報ニュース

 第43回市民文化祭のぼりべつ2007参加の「郷土史の夕べ」が6日夜、登別市民会館で開かれ、約120人が織田信長が天下布武への道を切り開く端緒となった戦いの実相に耳を傾けた。

 登別郷土文化研究会と登別市立図書館の共催。市内美園町在住の戦国史研究家・谷口克広さんが「織田信長の合戦~桶狭間の戦い・長篠の戦いの真実~」と題して講演した。

 この中で、信長軍が奇跡的な勝利を収めたといわれる「桶狭間の戦い」では、通説だった「迂回(うかい)奇襲説」のほか、「正面攻撃説」「正面奇襲説」「乱取状態急襲説」について、根拠となっている史料を使いながら説明。「今川軍の前衛部隊が押し戻され苦戦していた。今川軍は構えていた山から下って、正面から攻め込んだ信長軍と戦ったのが真実ではないか。奇襲ではない」と述べた。

 鉄砲3000丁三段撃ち―が通説とされていた「長篠の戦い」に関しても、諸説に触れながら「現地で三段撃ちの実験が行われたが、否定された。鉄砲3000丁三段撃ちと武田騎馬軍はなかったのが現在の認識」と解説。「良い史料に戻って検証すれば分かる」との持論に、参加者らは興味深く聴き入っていた。
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2007/11/08/20071108m_05.html

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2007年11月15日

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釈由美子が時代劇初挑戦!戦国時代の「耐える女」を熱演
サンスポ.COM芸能

女優、釈由美子(29)が12月16日放送のテレビ朝日系スペシャルドラマ「敵は本能寺にあり」(後9・0)で時代劇に初挑戦することが12日、分かった。

 釈は歌舞伎俳優、市川染五郎(34)演じる主人公・明智左馬助の妻で、明智光秀(中村梅雀)の長女、綸(りん)役。織田信長(玉木宏)によって許嫁(いいなずけ)の左馬助との仲を引き裂かれながらも、長い歳月を経て夫婦の契りを交わすことになるが、その後残酷な運命が待ち受けるという役どころ。

 時代劇の現場が初めてだったこともあり、最初は緊張していた釈だが、いざ撮影が始まると堂々かつ自然な演技でスタッフをうならせたという。また、艶やかな着物姿でも魅了した。

 耐える女を熱演した釈は、「所作や間など、時代劇独特の緊張感や雰囲気を楽しむことができました。綸の役どころは気持ちを作りやすく、演じることにすごく燃えました」というほど役にのめり込んだ。

 夫役の染五郎も「時代劇が初めてとは思えない落ち着きがあった。着こなしや所作もでき、自分の世界を通して、役をきちんと消化されている雰囲気が素晴らしかった」と釈を絶賛している。

 運命に翻弄されながらも戦国時代を力強く生きた夫婦の絆を、釈と染五郎によってよみがえらせる。


★原作は小泉元首相の愛読書、共演に玉木宏ら

 「敵は-」の原作は加藤廣氏の小説「明智左馬助の恋」で、小泉純一郎元首相の愛読書として話題になった信長暗殺の謎に迫る歴史ミステリー「本能寺3部作」の完結編。昨年11月に放送された前編「信長の棺」は松本幸四郎(65)が主演しており、父から子へ主役の座がリレーされる。共演は信長役の玉木、光秀役の梅雀のほか、羽柴(豊臣)秀吉を竹中直人(51)、徳川家康を椎名桔平(43)が演じる。
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200711/gt2007111312.html

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2007年11月11日

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斬新! 「ヴォーグ」を意識した時代劇ポスター『茶々 天涯の貴妃』主題歌も決定
Yahoo!ニュース cinemacafe.net

戦国乱世の末期、数奇な運命に翻弄されながらも、天下を獲らんとする男たちの傍らで強く、凛々しく生きた女性・茶々。宝塚の元・トップスターの和央ようか主演で、彼女の生涯を描く『茶々 天涯の貴妃(おんな)』。12月22日(土)の公開に向けて着々と製作が進む本作のポスタービジュアルと主題歌が決定した。

ポスターは、本作で初の女性を演じる和央さんが劇中の茶々の衣裳に身を包みながらも、“時代劇”であることを一切感じさせないモード系のメーク。“凛としたたたずまいの強い女性”を表現した斬新なビジュアルになっている。ファッション誌「ヴォーグ」を意識して制作されており、同世代の女性たちの注目を集めそうだ。こちらのポスターは11月3日(土・祝)より全国の劇場などに貼り出される。

つい先日、茶々の運命を大きく左右する三人の天下人、信長、秀吉、家康を始めとする豪華共演陣が発表されるなど、徐々にその全貌が明らかになりつつある本作。物語はもちろんのこと、2000年から6年にわたって、宝塚の男役のトップスターとして活躍してきた和央ようかが、このポスターで表されるような、現代を生きる女性に通じる“強さを持った女らしさ”を表現していく姿も大きな魅力と言えそうだ。

また主題歌も、sowelu(ソエル)の歌う「光」に決定。TVドラマ「トップキャスター」の主題歌「I Wonder」や映画『幸せのちから』のイメージソングとして使用された「幸せのちから」など、数多くの楽曲を映像作品に提供してきたsoweluだが、彼女にとって実写映画の主題歌を担当するのは今回が初めて。乱世を生き抜いた茶々の強さに着想を得て、彼女自身が詞を書き下ろしている。この主題歌「光」は映画公開直前の12月19日(水)に発売される。

『茶々 天涯の貴妃(おんな)』は12月22日(土)より全国東映系にて公開。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071101-00000006-cine-movi

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「茶々」前売りバカ売れ…6日間で東映史上最高の興収
Yahoo!ニュース スポーツ報知

元宝塚トップスターの和央ようか(39)が主演する東映の正月映画「茶々-天涯の貴妃(おんな)-」(12月22日公開、橋本一監督)の前売り券が、3日の発売開始後、東京など主要5都市の8日までの6日間で、大ヒットした正月映画「男たちの大和/YAMATO」(05年)の136%と驚異的な売り上げを記録していることが9日、分かった。

 「男たち-」は同じく6日間、主要5都市で1466枚だったのに対し「茶々-」は1921枚を売り上げる好スタート。「男たち-」は東映史上最高の51・5億円を記録。「興収60億円以上を狙えるかも」と、ちょっと無謀な計算をする関係者まで出ている。

 和央は今年7月に宝塚を退団。最後の公演では約8000人のファンを劇場外の沿道に集めた。今回が女優デビュー作でもあり、前売り券の好調へとつながった。ただ、宝塚以外となると全国的な知名度はまだまだ。どこまで和央と作品を浸透させられるかは、宣伝の腕次第だ。

 「茶々-」は、井上靖氏の小説「淀どの日記」が原作。織田信長(松方弘樹)の姪として生まれ、後に豊臣秀吉(渡部篤郎)の側室となり、徳川家康(中村獅童)へと立ち向かった戦国時代を駆け抜けた悲劇の女性の人生を描く。伏見桃山城を約1億円かけて補修改装するなど、総製作費10億円を超える大作としても注目されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071110-00000078-sph-ent

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2007年11月08日

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映画:「茶々―天涯の貴妃―」 東映京都撮影所で会見--来月22日から公開 /京都
Yahoo!ニュース 毎日新聞

豪華、打ち掛け姿を披露 元宝塚トップ・和央ようか映画初主演
 東映の正月時代劇映画「茶々―天涯の貴妃(おんな)―」で映画初主演となる元宝塚宙組トップスターの和央ようから出演陣と橋本一監督がこのほど、右京区の東映京都撮影所で会見。和央は豪華な打ち掛け和装姿を初披露した。【小川信、写真も】
 映画は井上靖の「淀どの日記」が原作。織田信長のめいとして生まれ、豊臣秀吉の側室となり、戦国時代にほんろうされながらも愛と誇りを貫いた女性が主人公。出演は他に渡部篤郎、寺島しのぶ、高島礼子ら。伏見区にある伏見桃山城を1億円かけて改修し“大阪城”として大阪夏の陣の場面を撮影するなど、制作費10億円の大作だ。
 会見で和央は「茶々は強さの裏に弱さを併せ持つ人間味のある人。見習いたいし、現代女性も共感が持てると思う」と語る一方、男役からの転身については「内またに慣れていないので、所作のけい古をした」と照れ笑い。自らの着物姿について「うれし恥ずかしびっくり。(武士役の男性を見て)あっちの方が慣れてるのにと思った」と笑いを誘った。
 京撮生え抜きの橋本監督は「茶々は強い女性なので、和央さんにはまっている。いい茶々になってきている実感がある」。秀吉役の渡部も「とても女性的。逆に引っ張られているぐらい」と、早くも“妻”に全幅の信頼を寄せる。
 一方、豊臣家に使える大蔵(おおくら)卿局(きょうのつぼね)役の高島は「確かに内またには気を使っている。でも、力が入る訳でもなく、マイペースだと感じた」と、新人離れした堂々とした演技に感心した様子。また、茶々の妹で徳川秀忠に嫁ぎ、大阪の陣では敵として相まみえる小督(おごう)を演じる寺島は「茶々は勇ましいが、心の中は意外ともろい。小督は表面的にソフトなだけに、中身はとてもしっかりしている。その対比が出せれば」と意気込みを語った。
 映画は12月22日から全国東映系で公開。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071101-00000295-mailo-l26

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2007年11月04日

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長慶ここに見参! 徳島市で「戦国三好旗揚げパレード」
徳島新聞

第二十二回国民文化祭・とくしま2007(おどる国文祭)八日目の三日、徳島市中心部で「戦国三好旗揚げパレード」が繰り広げられ、甲冑(かっちゅう)や陣がさ、陣羽織を身に着けた約二百人が東新町商店街などを練り歩き、古里の歴史を見直そうと訴えた。

 徳島ゆかりの戦国武将・三好長慶(一五二二-六四年)の再評価を目的にした県民企画事業の一環。県内のほか大阪、香川などから三好氏ゆかりの人たちが、武将名を記した旗が立ち並ぶ阿波おどり会館前に集結した。

 正午、陣太鼓が鳴り響き、パレード実行委事務局長の秋田忠昭さん(77)=徳島市八万町橋本=が「長慶が天下に君臨して四百五十年、ここに旗揚げパレードを挙行し、歴史の空白に挑戦する」と宣言。全員で「エイ、エイ、オー」と勝どきを上げて出発した。

 長慶らに扮(ふん)した二人が馬にまたがって先陣を切り、約百五十メートルにわたる行列はアーケード内へ。通行人らは突然現れた武者行列に驚いていた。

 約一時間後、行列は新町橋東公園に到着。舞踊家の故・桧瑛司さんの記録を基に作った「戦国三好節」を披露し、戦国時代絵巻を締めくくった。
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2;=&NB;=CORENEWS&GI;=Kennai&G;=&ns;=news_119413913797&v;=&vm;=1

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風林火山ののろし再現=長野県中条村
時事通信

(長野県中条村からの情報)
 長野県中条村は11月4日にNHK大河ドラマ風林火山にちなんで、第1回信州虫倉祭りを開きます。午前10時と正午の2回、村北部の虫倉山(標高1378メートル)の尾根でのろしを上げるほか、白馬・長野道路沿いにある道の駅「中条」で、当時の戦時食を再現した「おやき」の販売や、真田勝ちどき太鼓、舞踏などのイベントを行います。
 戦国時代の中条村は武田勢の最前線であり、虫倉山に築かれた柏鉢城で上杉謙信の進攻を見張っていたと言われています。のろしは5分間隔で各3キロほど離れた地点で上げることになっており、天候が良ければ尾根伝いに次々とのろしが上がる戦国ムードを味わうことができます。のろしを合図に「道の駅」でイベントを始めます。当日のイベントは次の通りです。
1 虫倉山トレッキング
・午前7時30分、「道の駅」集合。虫倉山登山
・参加費無料。
・事前に中条村ふるさと振興係に申し込みが必要
2 午前の部(道の駅)
・語りべ「虫倉山姥物語」
3 午後の部(同)
・中条虫倉太鼓、真田勝ちどき太鼓
・舞踏、詩吟
・気球搭乗体験
4 申し込み・問い合わせ先 中条村企画財政係 TEL:026-268-3001
※詳細はURL参照
http://www.vill.nakajyo.nagano.jp/

http://www.jiji.com/jc/c?g=jfn_30&k;=2007110100935&j1;

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2007年11月01日

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大徳川展 強力な権力の結晶、一堂に
Yahoo!ニュース 産経新聞

 徳川家に伝わる宝物を集めた「大徳川展」が東京・上野の東京国立博物館平成館で始まった。徳川宗家だけではなく、家康の息子たちを始祖とする尾張、紀伊、水戸の御三家に伝わる武具、甲冑から茶道具、美術工芸品、日用品まで、国宝を含むさまざまな宝物300点余りが展示されている。

 260年以上も続いた史上最長の武家政権の権威の源泉は、長く続いた戦国の世に決着をつけた強力な武力だが、それを象徴するのが、甲冑、刀剣、馬印や旗、軍配などの武具だ。

 関ケ原の戦いの際に家康が着用した「歯朶具足(しだのぐそく)」のほか、家康が部将らに与えたと伝わる4領の「南蛮胴具足」など、各地の博物館や美術館、神社から集められた甲冑がそろう。南蛮胴具足のひとつには強度を試すために撃ったという、鉄砲の弾痕が生々しく残る。実戦で役に立たなければ価値がない戦国の厳しさ。その事実を泰平の世に生きる子孫らに伝える役割を担っていたのだろう。

 幕府の体制が整備される中で、家康が神格化されるとともに数多くの画像が描かれたが、圧巻は関ケ原の戦いの翌年に家康が自ら作らせた等身大の座像だ。門外不出の像として伝えられ、のちに芝東照宮の神体になった。強烈な意思を秘めた眼光の鋭さは、400年の時を経ても衰えず、あたりを威圧するかのようだ。

 織田信長、豊臣秀吉ら戦国の覇者たちの間を転々とした名品として名高い「初花」「新田」の茶入れ、切腹を命じられた千利休が自ら削り弟子に与えた「泪(なみだ)」の茶杓(ちゃしゃく)などの茶道具、「源氏物語絵巻」をはじめとする書画。過去に例のない規模の展覧会は、かつて強大な権力のもとに集められ、長い年月の間に全国に散らばった道具たちのいわば“同窓会”でもある。12月2日まで。(栫井千春)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000105-san-ent

⇒大徳川展

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2007年10月31日

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さすが殿様、優雅な暮らし 飛騨「江馬氏の館」公開
Yahoo!ニュース 中日新聞

【岐阜県】飛騨市が同市神岡町殿に復元整備した室町・戦国時代の豪族、江馬氏の館の一般公開が28日始まった。庭園や堀、木造建築を備えた「神岡の殿様」の暮らしぶりが再現され、市民ら約2500人が訪れた。

 館は14世紀末ごろの築造とされ、跡地の広さは約100メートル四方。水田になっていたが、「江馬の殿様の庭跡」という言い伝えがあり、1976年から旧神岡町教育委員会が調査して遺跡を確認。観光や住民の交流拠点にと、7年前から史跡公園として整備してきた。

 客人を接待したとみられる木造平屋の「会所建物」や、池や石を配した京風の庭園、V字形に掘られた薬研堀(やげんぼり)など当時の地方武家としては本格的な造りの館を復元した。

 船坂勝美市長らがテープカット。地元住民が浦安の舞など伝統芸能を演じる記念イベントもあった。見学した近くの主婦(65)は「庶民と違う優雅な暮らしぶりだったのが分かる」と話していた。

 入場料は200円(小中学生100円)。冬季(12月1日-翌年3月末ごろまで)は休館。問い合わせは市教委=電0578(82)2255=へ。(古池康司)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071029-00000014-cnc-l21

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特別展:京都の歴史、サムライを焦点に--京都国際マンガミュージアム /京都
Yahoo!ニュース 毎日新聞

中京区の京都国際マンガミュージアムで秋の特別展「マンガでよむ京都第1巻『サムライKYOTO~戦国から幕末へ~』」が開かれている。同館は9月末に入館者20万人を突破。今後はマンガを通じて京都の歴史に触れる特別展をシリーズで開催していく。
 宮本武蔵を主人公にした井上雄彦さんの「バガボンド」、宮下英樹さんの「センゴク」など、最近、サムライを主人公にしたマンガ作品が人気を集めている。特別展では、特に京都で活躍したサムライたちに焦点を当て、戦国時代から江戸時代末期を舞台にした作品を集めた。
 この時代は、講談や小説でも幾度となく取り上げられ、多くのヒーローを生み出してきた。今回は、人物の内面や歴史の因果関係がマンガ特有の手法で描かれるさまを、多くの作品を見比べながら楽しむことができる。
 サムライマンガの重要なテーマ、新選組にちなみ、霊山歴史館(東山区)から借りた本物の新選組の袖章も展示される。また「新選組」「京都見廻組」などの作品で知られるマンガ家、黒鉄ヒロシさんの原画・版画展も開かれている。11月11日(日)までの午前10時~午後8時。水曜休館。京都国際マンガミュージアム(075・254・7414)。【椋田佳代】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000179-mailo-l26

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あすから企画展「司馬遼太郎と城を歩く」
Yahoo!ニュース 産経新聞

城をこよなく愛した作家、司馬遼太郎にちなみ、城をテーマにした企画展「司馬遼太郎と城を歩く」が東大阪市下小阪の司馬遼太郎記念館の展示コーナーで、30日から催される。

 司馬氏は、著作エッセー「街道をゆく 大和壺坂みち」で「私は城が好きである。あまりに好きなせいか、どの城址(じょうし)に行ってもむしろ自分はこんなものは嫌いだといったような顔を心の中でしてしまうほどに好きである」とまで述べた。

 戦国時代や幕末に題材を求めた多くの著作を世に送り出してきた司馬氏の作品には数々の城が登場し、作品の舞台となった。今回は司馬作品のなかに取り上げられた城の写真をはじめ、大坂の陣を巡る人間ドラマを描いた名作「城塞」や徳川家康の生涯を描くとともに日本人の本質にまで迫った「覇王の家」などの自筆原稿など司馬氏と城に関する資料約40点を展示する。

 絵を描くことも好んだという司馬氏が西洋の城を描いた自筆色紙「ザヴィエル城秋風」は貴重な一品。また、司馬作品に登場する城や城にまつわる出来事を地図上に示したタペストリー(縦3.5メートル、横3.5メートル)は圧巻。

 その他、期間中には館内に「坂の上の雲」の舞台となった松山城や「峠」に登場する長岡城を描いたイラストなども随所に展示される。

 平成20年4月20日まで。問い合わせは同館((電)06・6726・3860)へ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071030-00000059-san-l27

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島根・雲南で中世の製鉄炉跡4基を確認
Yahoo!ニュース 産経新聞

島根県雲南市吉田町の大志戸IIたたら跡で、鎌倉~戦国時代(13~16世紀)のたたら製鉄炉跡4基が見つかり、10日、同県埋蔵文化財調査センターが発表した。近くの遺跡でも昨年度までに、14世紀ごろとみられる同製鉄炉跡2基を確認。中世の製鉄炉跡が、集中的に確認されたのは、全国的にも珍しい。

 今回見つかった製鉄炉跡は、谷川沿いの半径50メートル内にあった。13、16世紀の跡が各1基、14世紀が2基。大きさは、長さ2・6~4・2メートル、幅1・2~1・5メートルだった。14世紀以降の3基は、製鉄の過程で生じる不純物を流し込む円形の土坑(どこう)がたたらの両端に造られた鉄アレイ型と呼ばれる県東部独特の構造。近くの遺跡で確認の製鉄炉跡も同様の構造で、同調査センターでは「製鉄技術の地域性や発展を知る貴重な史料」と評価している。

 現地説明会は13日午後1時半までに、雲南市掛合町の市立掛合小に集合。問い合わせは現地事務所((電)0854・62・0107)。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071011-00000039-san-l32

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2007年10月28日

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まるで戦国、火縄銃とどろく 日野・氏郷まつり開幕
京都新聞 Yahoo!ニュース

滋賀県日野町出身の戦国武将、蒲生氏郷にちなんだ「氏郷まつり楽市楽座」が27日、同町役場周辺で始まった。手作り甲冑(かっちゅう)の紹介や火縄銃の空砲発射などがあり、観光客らでにぎわった。
 甲胄の紹介では、町商工会手作り甲胄製作委員会のメンバーがよろいに装飾用のひもを通すため、1万3000個の小さな穴を開けていることなどを説明した。また、同町周辺の地域が戦国時代、火縄銃の産地だったことにちなむ射撃イベントでは、日野筒鉄炮隊の隊員が、通行止めにした町道で空砲を発射。「バーン」という大きな音が会場中に響くたびに、見物客からは大きな歓声があがっていた。
 28日には、よろい姿の武者が大聖寺(同町大窪)を出発、会場まで練り歩く武者行列や火縄銃の射撃がある。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071027-00000049-kyt-l25

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2007年10月27日

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三好長慶を歌でPR 徳島ゆかりの戦国武将、顕彰有志が曲づくり
徳島新聞

徳島ゆかりの戦国武将・三好長慶(一五二二-六四年)の顕彰活動に取り組む有志が、鳴門市出身の舞踊家・桧瑛司さん(一九二三-九六年)によって記録された踊りを基に、歌謡曲「戦国三好節」を作った。県民にあまり知られていない三好氏を分かりやすくアピールするのが目的で、第二十二回国民文化祭・とくしま2007(おどる国文祭)に合わせて行われる戦国三好フェスティバルで披露する。

 作詞したのは、徳島の歌を作る会会長の高橋敏夫さん(70)=鳴門市大麻町桧。昨年、妻が三好氏の家臣の家系であることが分かり長慶の顕彰活動に参加。同年秋に鳴門市内で開かれた桧さんの回顧写真展に足を運んだ際、桧さんが調査した県内の民俗芸能の中に三好氏を歌詞にした「三好踊り」があることを知り、曲作りを思い付いた。

 桧さんは舞踊創作の傍ら、県内に伝わる民謡や民俗芸能の調査、保存活動にも取り組んだことでも知られる。三好踊りもその一つで、阿南市や海部郡で踊られていたという。詞は、三好氏が阿波や淡路の軍勢を率いて和泉国(現大阪府堺市)に攻め込んだことや、金のうちわや轡(くつわ)といった武士の装束を描写している。

 高橋さんは詞を基に冒頭にセリフを付けた歌詞を書き上げ、会員の野々宮一博さん(徳島市)に作曲を依頼。七月に完成し、CDや桧さんゆかりの日本舞踊・蔦元流の踊りを盛り込んだDVDの制作を計画していた。

 この話を聞いた戦国三好フェスティバルの実行委員が、曲を十一月三日に徳島市内で行う武者パレードの目玉の一つにすることを決めた。同日午後一時半から新町橋公園で開かれるパレードのエンディングで、鳴門市在住の演歌歌手・雲海たけしさん(本名・吉田武史)が熱唱する。

 高橋さんは「徳島をPRする歌がまた一つできた。覚えやすい曲なので三好氏を知るきっかけにしてほしい」と話している。

 〈冒頭のせりふ〉

 ~ころは天文半ばごろ、三好軍勢幾千人の天下を目指す紋所 三階菱の旗なびかせて今、出陣の誉れ川~

 〈一番の歌詞〉

 音に聞こえし三好殿 阿波や淡路を催して 和泉の国へと御陣立ち それを聞き候根来法師が 軍見かけて護摩を焚(た)く

http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2;=&NB;=CORENEWS&GI;=Kennai&G;=&ns;=news_119320683836&v;=&vm;=1

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「三好」縁に-伊吹島出身者、国民文化祭出場へ
四国新聞

戦国時代に近畿地方の大半を平定していた阿波の三好氏に縁のある伊吹島(香川県観音寺市)の出身者らが、27日に徳島県で開幕する国民文化祭に出場する。参加するイベントは徳島市内を武者姿でパレードする「三好長慶フェスティバル」。関係者は「三好」というルーツを触媒に阿讃交流を広げ、過疎化が進む伊吹島の活性化にもつなげたいと意気込んでいる。

 戦国武将・三好長慶は1549年から織田信長が上洛する直前までの約20年間、阿波や讃岐などを拠点に畿内を治めていた。しかし、信長に追いつめられ徐々に衰退。長慶の孫2人は伊吹島に逃れ、家臣とともに住み着いた。島民には三好姓が多く、今も盛んなイリコ漁は三好氏の子孫が始めたともいわれる。

 同フェスに参加するのは伊吹島出身者と在住者でつくる伊吹島三好会(三好兼光代表)。主催者の三好長慶会(徳島)とは、三好氏ゆかりの史跡巡りなどで約7年前から交流を深めていたのが縁で出場を決めた。パレード当日は、約30人が手作りの紙製の甲冑(かっちゅう)や兜(かぶと)を身につけた武将姿や陣羽織に烏帽子(えぼし)姿で練り歩く。

 三好代表は「これを機に長慶が生まれた徳島県の三好市と住民レベルで交流を深めるとともに、伊吹島民に歴史を再認識してもらいたい」と話している。

 同フェスは来月2日から3日間開催。パレードは3日正午に徳島市の阿波おどり会館を出発する予定。

http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20071026000091

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戦国武将や姫、兼山練る 華やか「若獅子蘭丸2007」
中日新聞

戦国武将・森蘭丸の生誕地とされる可児市兼山地区で21日、恒例の「戦国武者行列 若獅子蘭丸2007」が行われ、市内外から多くの見物客が訪れた。

 行列は兼山町商工会が主催し十九回目。東京や福岡などから一般公募で集まった三十四人を含め計約六十人が、蘭丸や父の可成(よしなり)ら森家の武将や姫、鉄砲隊や楽隊に仮装。甲冑(かっちゅう)を身につけ、約二キロの道のりを馬や徒歩で歩いた。

 今年の蘭丸役は大阪府豊中市のデパート販売員佐伯利津子さん(23)。十年来の蘭丸ファンといい、「祭りも町も雰囲気は最高で楽しい」と笑顔を見せた。

 コース途中で毎年披露されている寸劇は、今年は可成にスポットを当てた。烏峰城攻めの武勲で織田信長に取り立てられ、初代金山城主になった栄光から、壮絶な最期までを描き、沿道から大きな拍手とカメラのフラッシュを浴びていた。 (小川邦夫)

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071023/CK2007102302058399.html

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コーエー、WIN「信長の野望・革新 パワーアップキット」チャレンジシナリオ第8弾「敵中突破」を公開
Yahoo! ニュース

株式会社コーエーは、Windows用歴史シミュレーション「信長の野望・革新 パワーアップキット」用の追加シナリオ「敵中突破」を公開した。

 「信長の野望・革新 パワーアップキット」では、全国統一を目指すプレイとは別に、特定の大名家を担当し、シナリオごとに定められた目標の達成を目指す「チャレンジモード」が用意されている。9月14日の発売以来、チャレンジモード用のシナリオが毎週1本ずつ公開しており、今回の「敵中突破」はチャレンジシナリオの第8弾となる。なお、配信されるチャレンジシナリオは、全10本となる予定。

 「敵中突破」は、島津義久を担当し、島津義久隊を、島津家の九州の拠点に帰還させるというシナリオ。島津義久隊は、文字通り敵の真っ只中に孤立した状況となっており、難易度もこれまでで最大の★3つとなっている。

【配信中の追加シナリオ】

・チャレンジシナリオ1:信仰の力 (難易度:★)

 担当武将は本願寺顕如。一定期間内に、すべての諸勢力・一向宗と協定関係を結ぶ。

・チャレンジシナリオ2:我ら七本槍 (難易度:★★)

 担当武将は羽柴秀吉。一定期間内に、羽柴家の家臣・福島正則や加藤清正など7人に戦法「槍車」を修得させる。

・チャレンジシナリオ3:戦国美食道 (難易度:★)

 担当武将は伊達政宗。一定期間内に、伊達家の特産品を一定の数値以上にする。

・チャレンジシナリオ4:南蛮かぶれ (難易度:★★)

 担当武将は大友宗麟。一定期間内に、南蛮技術「カノン砲」を獲得する。

・チャレンジシナリオ5:因果を絶つ (難易度:★★)

 担当武将は三好長慶。一定期間内に、三好家の諸代家臣を一定数揃える。

・チャレンジシナリオ6:九州席巻 (難易度:★★★)

 担当武将は黒田孝高。一定期間内に、九州のすべての本城を支配する。

・チャレンジシナリオ7:鬼と呼ばれた男 (難易度:★★★)

 担当武将は佐竹義重。一定期間内に、関東地方の諸勢力と協定関係を結ぶ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071025-00000057-imp-sci

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雑記帳 仙台みそも一役?来秋の宮城観光キャンペーン
Yahoo!ニュース

◇伊達政宗が生産を奨励した仙台みそを来秋の観光事業「仙台・宮城デスティネーションキャンペーン」のPRに使おうという研究会が23日、仙台市で開かれた。
 ◇宮城県味噌醤油(みそしょうゆ)工業協同組合が主催し、旅館の女将14人が参加した。みそ職人が「熟成が遅い分、風味があり、だしを入れずにみそ汁が作れる」などと説明し、即席みそ汁作りも紹介された。
 ◇仙台みそは長期保存でき、味も良いと戦国時代に兵糧として全国に名をはせた。観光客呼び込みの「戦国時代」に再び脚光を浴びるか。【青木純】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071024-00000028-maip-soci

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2007年10月25日

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元・宝塚トップの和央ようかが、茶々役で映画デビュー その脇を固める豪華キャストは?
Yahoo!ニュース

戦国乱世の時代。信長の血を受け継ぎ、秀吉に愛され、家康をも恐れさせた女性がいた。名は茶々――。数奇な運命に臆することなく、愛する人のために最期まで信念を貫き通した彼女の壮絶な生涯を描いた『茶々-天涯の貴妃(おんな)-』。今年で生誕100周年を迎える井上靖の傑作「淀どの日記」(角川文庫)を原作にした本作が現在、製作中である。( この映画のフォトギャラリー )

今回、ヒロイン・茶々役に抜擢されたのは、元・宝塚トップスターの和央ようか。2000年より6年間にわたり男役トップとして不動の地位を築いた彼女が、本作で初の女性役にして映画デビューを飾る。そんな和央さん演じる茶々を取り巻く、歴史上の人物を演じる俳優陣も豪華絢爛。茶々を翻弄し、翻弄される3大天下人、織田信長を松方弘樹、豊臣秀吉を渡部篤郎、そして徳川家康を中村獅童が演じることが決定。これまで数多くの大河ドラマで幾度となく演じられてきた役柄だけに、どんな人物像に仕上がるか、注目が集まる。そして映画に華を添える女優陣にも、寺島しのぶ、原田美枝子、高島礼子、余貴美子といった錚々たる顔ぶれが並ぶ。

現在、撮影進行中の『茶々 天涯の貴妃(おんな)』。クランクアップは11月中旬を予定しており、12月22日(土)にはその全貌が明かされる――。

こちらの特報は『茶々 天涯の貴妃(おんな)』作品情報ページからもご覧いただけます。
http://www.cinemacafe.net/movies/cgi/20291/


【関連作品情報】
・ 茶々 天涯の貴妃(おんな)
 2007年12月22日より全国東映系にて公開
 © 2007「茶々」製作委員会

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071024-00000005-cine-movi

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2007年10月22日

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「時代祭」 足利将軍、初の参加…京都
読売新聞

京都三大祭を締めくくる「時代祭」が22日、京都市中心部で開かれた。室町時代行列が113年目で初めて加わり、明治維新から平安時代まで連なる歴史絵巻が観光客らを魅了した。

 足利尊氏が「逆賊」とみなされていたため、室町時代だけが欠けていた。室町行列は足利将軍らの「室町幕府執政列」と、庶民に流行した風流踊りの「室町洛中風俗列」で、総勢70人。

 桓武、孝明両天皇をまつる2基の御鳳輦(ごほうれん)を平安神宮(京都市左京区)から迎え、約2000人による全長2キロの時代行列が京都御所(上京区)から平安神宮までの市中心部を歩いた。沿道で室町行列を迎えた足利家28代目当主・義弘さん(73)(群馬県高崎市)は、「やっと京都で市民権を得られた。きっと、尊氏も喜んでいるでしょう」と話していた。

http://osaka.yomiuri.co.jp/season/20071022kn07.htm

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シリーズ裸の東京・道灌旋風の吹いた跡
Yahoo!ニュース

東京・中野区沼袋、江古田公園近くに、「江古田沼袋古戦場」の石碑が立っている。文明9年(1477)4月の太田道灌と豊島泰経との戦いの跡である。関東管領の上杉家に叛旗を翻した家宰の長尾景春に同調した豊島泰経、泰明兄弟は、この江古田沼袋で上杉方の太田道灌と激突、軍略に優れた道灌が豊島兄弟を打ち破った。程なく、豊島一族の石神井城も落城する。

この太田道灌の登場は、歴史の節目であろう。戦術面では、これまでの一騎打ち中心の戦い方から、足軽という下級の歩兵による集団戦法へと変化せしめた。

また、江戸城を築城したことは、その後の地域史の上でも画期的なことである。後に徳川幕府が開かれ、明治以降は皇居となって現在に至る。江戸という関東の一地域から、世界的に注目を集める日本の首都・東京へ。その足かがりを作ったのが上杉家の家宰、太田道灌であった。だが、その優れた才能ゆえに、野心を疑われ、主君である上杉定正に暗殺された。

公方家、管領家といった室町幕府の出先機関や土着の豪族たちが治乱興亡を繰り返す戦国時代の東京23区は、人間の権力欲むき出しのままで、中央政権的な建前で着飾る時期ではまだなかった。
(記者:菊池 道人)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071022-00000001-tsuka-l13

コラムにもありますが、関東管領[かんとうかんれい]の一流である扇谷上杉[おおぎがやつ]の太田道灌[おおたどうかん]の足軽隊は戦国の合戦を一変させました。
鎌倉時代以降、武士達の合戦は一騎打ちが主流で、逃げるのは卑怯中の卑怯と考えられていました。
足軽のように集団で活動し、相手の弱点を一気に攻め、状況が危うくなったら一気に引くことなど論外、言語道断の行為でした。
太田道灌が足軽隊を考え出したわけではないのですが、太田の足軽隊以前の足軽隊は傭兵が多かったようです。つまり金で雇われた没落農民や浮浪者達の烏合の衆でした。道徳や規律など気に掛けず、動きもバラバラで皆自分勝手、戦況が危うくなると勝手に故郷に逃げ帰ってしまいます。
それを「足軽軍法」でまとめ上げ、組織化したプロ集団に育て上げたのが、太田道灌だといわれています。
太田道灌の足軽隊は数ある戦で連戦連勝し一躍有名になっていきます。
こうして、太田道灌の足軽戦法を習いにして、足軽戦法がその後の戦国時代の合戦で主流になっていくのです。

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2007年10月21日

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鷹匠の技に歓声 千曲で伝統の「タカ狩り」実演
中日新聞

鷹匠(たかじょう)の合図に、闘志むき出しで飛び立つハヤブサ-。昔ながらの「タカ狩り」の実演会が二十日、千曲市の県立歴史館であった。

 伝統の技を披露したのは、諏訪流十七代鷹匠の田籠(たごもり)善次郎さんら同流放鷹術保存会のメンバー。ハンチング帽にはんてん、ももひきといった明治・大正期の装束でハヤブサやオオタカとともに登場し、鷹匠から別の鷹匠に飛び移らせる「振り替え」、木にとまったタカを鷹匠のもとへ呼び戻す「渡り」などを次々に演じた。

 空中に放り投げた疑似餌(え)をタカが見事に捕らえると、会場を埋めた三百人余の観衆から歓声が上がった。

 同館は戦国時代の信濃武士に焦点を当てた展示会「武田・上杉・信濃武士」(中日新聞社など後援)を開催中。展示の目玉にと戦国武将もたしなんだタカ狩りの実演を企画した。(佐藤春彦)
http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20071021/CK2007102102057904.html

鷹狩りと言えば、
織田信長や徳川家康と言った戦国武将たちは鷹狩りが大好きだったようです。
織田信長の一代記である信長公記などを読んでいると、結構な頻度で鷹狩りを行っています。
娯楽の少なかったであろう戦国時代に、鷹狩りはうってつけだったのかも知れませんね。

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2007年10月20日

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「風林火山」の世界を体感
大阪歴史博物館で書状や武具公開

戦国時代に覇を競った武田氏や上杉氏に関する資料を集めた特別展「風林火山-信玄・謙信、そして伝説の軍師」の内覧会が19日、大阪市中央区の大阪歴史博物館であり、武田家と上杉家に関する貴重な資料約190点が披露された。20日から一般公開する。

 特別展はNHKの大河ドラマ「風林火山」に合わせ、同博物館やNHK大阪放送局などが主催。山梨県、新潟県に次ぐ開催となった。

 武田氏の軍師だった山本勘助の名前が記載され、勘助が実在する人物と証明された武田晴信(信玄)の書状(市河文書)を初公開。信玄や謙信、勘助の人物画やゆかりの武具などの豊富な資料が展示されている。

 激戦となった第4回の川中島合戦図屏風(びょうぶ)や上杉謙信が使用した馬上杯なども見ることができる。

 同博物館は「歴史ファンや美術ファンにも見応えのある資料を集めた」としている。12月3日まで。火曜日休館。有料。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007101900164&genre;=M2&area;=O10

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3県知事会議:大河ドラマで観光PR 交通ネットの形成も--合意 /福島

 福島、新潟、山形の3県知事会議が19日、山形県米沢市で開かれた。09年に放映されるNHK大河ドラマ「天地人」を活用した広域的な観光連携や、総合的な交通ネットワークの形成などで合意した。
 「天地人」は上杉家に仕えた戦国時代の武将、直江兼続が主人公で、米沢や会津地方にゆかりがある。知事会議では、大河ドラマのPR効果を活用するため、首都圏でのプロモーション活動を進めることを決めた。高速道整備では、泉田裕彦・新潟県知事が「地域ごとのプライオリティー(優先権)をつける必要がある」と指摘し、協議を継続することで一致した。
 また、新潟県から震災対策として、原発の耐震設計審査指針の抜本的強化や被災者生活再建支援法改正について提案があり、佐藤雄平知事は「(原子力行政への)住民の信頼回復には、原子力安全・保安院を経済産業省から分離・独立させるべきだ」と述べ、理解を示した。【湯浅聖一】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071020-00000090-mailo-l07

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洛中洛外図 「歴博甲本」作者、狩野元信と推定
このニュースに関連して、昨日の読売新聞に面白い記事が載っていた。
洛中洛外図[らくちゅうらくがいず] 歴博甲本には様々なコードが隠されていた事が発見されたという。
最近ではダヴィンチコードなる映画が公開されていたのでピンと来るはずである。
まあ、からくり、暗号といったところだろうか。

洛中洛外図は京都の市街や近郊の様子を描いた絵画[屏風]で何点か現存している。
当時の文化風習や建築様式を知る上で非常に役立つ、重要な文化財でもある。

先の記事にもあったが16世紀の作は歴博甲本、東博模本、上杉本、歴博乙本と呼ばれる4点だけで、あとは江戸時代の作品だという。
最も有名な洛中洛外図屏風が1574年[天正2年]に狩野永徳が描いた上杉本で、石山本願寺、越前国、伊勢長島の本願寺勢の蜂起で忙殺されていた織田信長が武田勝頼の南下阻止を依頼するために上杉謙信に贈ったとされていたが、最近では足利将軍が上杉謙信に上洛を促す意図で贈ったとされる説も有力だ。
上杉本には、輿に乗った上杉謙信らしい一行が上洛する様子が描かれている。当時は幕府から許可が無いと輿に乗ることを許されなかったから、輿に乗っているのが上杉謙信だと分かる。
現在、上杉本は国宝に指定されている。

さて、話は歴博甲本に戻るが
歴博甲本のテーマは「父子の繁栄」だということだ。

作者は狩野元信で、発注したのは当時の室町幕府管領 細川高国と推定される。
細川高国は大永元年(1521年)3月に将軍 足利義稙[よしたね]を追放し、足利義晴を第12代将軍として擁立し、天下人に最も近い地位にある人物だった。
嫡子の稙国[たねくに]に家督を譲ったとき[大永4年(1525年)]に、室町幕府の絵師・狩野元信にこの洛中洛外図を描かせたらしい。
だが「父子の繁栄」という細川高国の願いとは相反し、嫡子・稙国は家督を譲られたその年に死に、1531年[享禄4年]細川高国 自身もライバル細川晴元の重臣・三好元長に攻められ自刃している。

- 洛中洛外図コード -
コードを発見し研究した一人、国立歴史民俗博物館の小島准教授によると、
「笛で遊ぶ家人」は主人が留守をしていることを意味するコードと解釈し
白い顔は公家を意味する。
烏帽子[えぼし]の形によって身分を区別する。
屋根や柱で顔をわざと描かないよう配慮された人物が将軍であると読み解いた。

このスタイルは後に描かれている上杉本などの洛中洛外図にも一部受け継がれているという。

洛中洛外図屏風甲本[写真]
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/rakutyuu/index.html
http://www.rekihaku.ac.jp/events/gallery/index.html

洛中洛外図屏風甲本公開[重要文化財]
国立歴史民俗博物館 第2展示室
平成19年10月30日(火)~11月11日(日)
http://www.rekihaku.ac.jp/events/o071030_r.html

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「歴博甲本」作者、狩野元信と推定 国立歴史民俗博物館

 京都を詳しく描いた「洛中洛外図屏風」の中で最古と言われる「歴博甲本」(重要文化財)について、所蔵する国立歴史民俗博物館は、作者を狩野元信と推定するなどの研究成果をまとめた。

 約100点の存在が知られる「洛中洛外図」の中で16世紀の作と言われるのは、歴博甲本、東博模本、上杉本、歴博乙本と呼ばれる4点。残りは17世紀以降の江戸時代に描かれた。「歴博甲本」は現存する洛中洛外図では最古で、16世紀前半の作品と考えられてきたが、作者や制作目的など、不明な点が多かった。

 歴博の小島道裕准教授によると、史料や文献などから絵の中の個人名を特定していくことで、制作意図や作者を推測したという。

 室町幕府の第12代将軍足利義晴を擁立した細川管領家の当主高国は1525年、新しい将軍御所を建設し家督を息子の稙国(たねくに)に譲った。高国の統治下で栄える京都の姿を、幕府の御用絵師である狩野元信に描かせたのが甲本だという。さらに、稙国は家督を譲られた年に亡くなっているので、制作が始まったのは1525年と推定できるという。

 小島准教授は「甲本は、高国が自分の次の世代の繁栄を願って制作させたと考えられる。高国が絵を頼むとしたら御用絵師の狩野元信だったと推測できる」と話している。

 甲本は30日から、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で公開される。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200710040106.html

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2007年10月18日

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浅井、織田の「元亀争乱」 湖北町歴史資料館で特別展
中日新聞

元亀騒乱をテーマにした開館特別展=湖北町の歴史資料館で

 湖北町児童館を改装した町歴史資料館「小谷城戦国歴史資料館」が同町郡上に開館。十一月十九日まで、戦国大名の浅井長政らと織田信長による戦い「元亀争乱」をテーマにした開館特別展を開催している。

 資料館は、小谷城跡の保全を図るとともに、地域に埋もれた歴史資料を活用しようという目的。

 特別展は、戦国時代の元亀年間(一五七〇年代初め)に繰り広げられた一連の戦(いくさ)にゆかりの品を集めた。朝倉義景が武運を祈って、町内の和泉神社に奉納した鰐口(わにぐち)など約四十点を展示。このほか小谷城跡からの出土品など約四十点も常設展示している。

 宮城県から訪れた長政ファンの宮田静さん(31)は「来てみてよかった」と感激していた。
 (近藤歩)

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20071018/CK2007101802057090.html

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2007年10月17日

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幻の魚津城 木工で創作 木地職人西川さん 『地元PRの一助に』
中日新聞

木工で魚津城-。魚津市大海寺野の木地職人、西川勝治さん(63)=西川工芸経営=が、魚津城をモチーフにした木工品「戦国 幻の魚津城」を制作し、十六日に同市役所で沢崎義敬市長に一セットを寄贈した。

 西川さんがイメージした五層の天守閣を頂く魚津城で高さ約四十センチ、土台となる石垣部分は縦横約十五センチ。城部分がケヤキ、石垣部分がセンの木を材料に約四十個の部品を組み合わせて仕上げた。

 魚津城は室町時代に松倉城の支城として、椎名氏が築城したとされている。戦国時代には新川郡の拠点として織田勢と上杉勢の戦いの地となり、その後、佐々成政や前田利家が支配した。

 江戸時代初期に廃城となったが、加賀藩は米蔵や武器庫を置き、魚津町が近世城下町として繁栄した。明治初期まで堀や土塁も残されていたが、現在は石垣の石が大町小にある石碑周辺に残されるだけで、城の外観を示す資料などは残っていない。

 西川さんは魚津漆器の木地職人。これまでに五重塔、たてもん祭りのたてもんなどの木工品を制作して販売している。まちづくりに向けた雰囲気を高め、魚津を全国にPRする一助になればと八月から城の制作を手掛けた。

 西川さんは「生涯の仕事として、魚津城を木工品で表現したいと思っていた。石垣部分の木彫りは初めて挑戦した。魚津城の木工品で少しでも魚津を知ってもらえればうれしい」と話している。

 現在は、寄贈分を除く完成品十個は、魚津産業フェア「〇〇(まるまる)魚津」に出展する予定。

 木工品は、魚津城、旗、松、台座、上杉謙信が詠んだとされる句を印刷した色紙のセットで販売する予定。予約は、西川工芸=電話0765(22)4008=へ。 (武田寛史)

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20071017/CK2007101702057014.html

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2007年10月15日

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<西川貴教 にしかわ たかのり>新曲「BLADE CHORD」 人気ゲーム「戦国BASARA2 英雄外伝」主題歌に

西川貴教[にしかわ たかのり]さんのユニット「アビングドンボーイズスクール」の新曲「BLADE CHORD(ブレイドコード)」が人気アクションゲーム「戦国BASARA2 英雄外伝(ヒーローズ)」(カプコン、PS2、Wii用)の主題歌に起用されることが明らかになった。

 「戦国BASARA」は、前田慶次や織田信長、真田幸村ら戦国時代の武将が活躍するアクションゲームの人気シリーズ。政宗が6本の刀を爪のように振り回す“六爪流”の使い手であるなど個性的で派手な攻撃で、敵の大軍をけ散らす。「英雄外伝」では、信長の妹お市や浅井長政、政宗の参謀として名をはせた片倉小十郎らの新キャラクターが登場、2人での協力、対戦プレーも可能になる。

 西川さんはTMレボリューションとして、05年の第1作「戦国BASARA」の主題歌「crosswise」を担当しており、今回の主題歌について「戦場で剣(ブレイド)がいろんなところで合わさって、いろんな音色が奏でられる風景を我々のギターや鍵盤の『コード』で表現できれば」とコメントしている。シングルは12月5日に発売される。

 「戦国BASARA2 英雄外伝」は、PS2版、Wii版ともに11月29日発売予定。PS2版が5480円、Wii版は「戦国BASARA2」とのセットで7340円。【立山夏行】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071012-00000009-maiall-ent

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2007年10月13日

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信長の庭園か、遺構発見 岐阜公園で市教委

多数の河原石が見つかり、庭園と裏付けるために岐阜市教育委員会が調査している信長居館跡の発掘現場=岐阜市の岐阜公園で


 戦国武将、織田信長の居館跡発掘調査を岐阜市の岐阜公園で実施している市教育委員会は十一日、信長が治めた十六世紀後半の地層で約六十個の河原石が敷き詰められているのが見つかったと発表した。石は粘土に埋め込まれるなどの特徴から、庭園の可能性が高いとみて調査している。

◆「州浜」に類似
 現場は金華山へのロープウエー乗り場と三重塔の間の平らな場所。地中約五十センチまで掘り進めたところ、帯状に長さ約六メートルの範囲で、所々でこぶし大の石が密集して埋まっているのを発見した。石は平らで、丸みを帯び、河原石の特徴と一致する。市教委によると、当時の庭園は水際に河原石を敷いて「州浜(すはま)」に仕立てたのが一般的。今回出土した遺構は構造が似ているため、庭園の可能性が高いと判断した。

 角のある石を五個立てて並べた石列(いしれつ)も見つかり、石列は河原石が崩れないように固定する州浜のすそ止めだった可能性がある。現場の東十数メートルにはわき水が出ていて、そこから水を引いたとの見方もある。

 地層は、出土した陶器の破片や火災の痕跡などから十六世紀後半とみられるという。この時代の大名の庭園は、福井県の朝倉氏や大分県の大友氏などの遺跡で見つかっている。今回、確認されれば、信長にまつわる遺跡では初めて。

 当時、信長の居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書にも「(池の)底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩(まぶ)しい白砂があり…」との記述がある。市教委はこの遺構が庭園であることを裏付けるため、専門家の意見を聞きながら、〇八年度以降も範囲を広げて州浜を探す。河原石がどこで産出したかも調査している。

 京都造形芸術大の仲隆裕教授(庭園史)は「石列の南側には水が流れていたか、池であったと考えられる。部分的に石が集まっている場所は、趣を添えるために配置した景石(けいせき)や手洗いの水を入れる手水鉢(ちょうずばち)の可能性がある」とコメントした。
 (丸田稔之)

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071012/CK2007101202055688.html
中日新聞


先日の本能寺の屋根瓦といい、今回の遺構といい続々と信長関連の遺構が発掘されていますね。
それにしても、ポルトガル人宣教師 ルイス・フロイスという人は良い仕事したなとつくづく思います。
この人が「日本史」を書かなかったら、現在知られている戦国時代の流れも大分変わって伝わっていた可能性があります。
彼は当時の事件や風習はもちろん、建物なども、著書・日本史で細かく描写しています。
時の人、信長関連では信長の一代記「信長公記」に書かれていない内容も多くあり、
それどころか、同じ事象を取り扱う場面で、信長公記とはまったく違う内容で、より信憑性が高いと思われる記述があると言います。
まず、客観性の観点から言いますと、こちらのほうが、ずば抜けて高いと思われます。
というのは信長公記は信長の家臣・太田牛一[おおたぎゅういち]、所謂、身内が書いていますので、
どうしても信長よりに書かれていて、信長に都合が悪いことは書かなかったと思われるからです。
ただし、ルイス・フロイスは外国人なので日本の風習を熟知していなかったと思われるので、記述がおかしくなると言う事実を考慮しなければなりませんね。

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獅童が家康!松方は信長!渡部が秀吉!異色キャストで“歴史的”競演

歌舞伎俳優の中村獅童(35)が、映画「茶々−天涯の貴妃(おんな)−」(12月22日公開、橋本一監督)で時代劇映画に初挑戦することが11日、分かった。同作は10億円を超える製作費が投じられる大作。獅童は、主演・和央ようか(39)演じる茶々を最大の敵として恐れた歴史的戦国武将・徳川家康を演じる。また松方弘樹(65)が織田信長を、渡部篤郎(39)が豊臣秀吉を演じることも決定した。

 獅童、松方、渡部という個性あふれる異色の3人が、時代に翻弄(ほんろう)されながらも強く生きた女性、和央演じる茶々を取り巻く戦国三武将を演じることになった。

 「茶々−」は井上靖さんの「淀どの日記」が原作で、「男たちの大和/YAMATO」「大奥」に続いて映画大手・東映が送り出す正月映画。伏見桃山城を7000万円かけて補修改装するなど総製作費10億円を超える大作となっている。

 徳川家康、織田信長、豊臣秀吉という戦国時代を生き抜いた3人の歴史的武将。中でも茶々を最大の敵として恐れる徳川家康は、今作が初の時代劇映画となる中村獅童が演じる。「徳川家康という人物は“忍耐の人”というイメージがある。心の底にギラギラした情熱を秘めた家康を中村獅童流に演じるつもり」と気持ちを高ぶらせた。

 また茶々が愛を貫いた秀吉は渡部篤郎が挑む。劇中では木下藤吉郎から羽柴秀吉、そして豊臣秀吉まで、37~62歳という幅広い年齢を演じ分けることになり「今回は女性目線の作品。また違った秀吉像が生まれるはず」と楽しみにした。

 そして茶々の伯父にあたる織田信長には松方が登場。松方は信長、秀吉、家康の三武将すべてを演じた経験があるが「戦国三武将の中で最もアクの強い英雄である信長は、何度やっても興味深く、演じがいのあるキャラクター」。ほかの2人の顔ぶれを見て「通常の三武将のイメージよりも少し異色な組み合わせかと思うので、まさしく“競演”をご期待いただきたい」と力を込めた。

 12月の公開までギリギリのスケジュールの中で行われている撮影は中盤を迎え、クランクアップは11月中旬。壮大なスケールとともに、今作がスクリーンデビューとなる和央を含めた個性派ぞろいの演技は、大きな注目を集めそうだ。

 ◆「大奥」超えた!衣装に1億円 東映正月映画として昨年末に公開された時代劇「大奥」では豪華けんらんな衣装が話題となったが、今作は「大奥」を超える総額約1億円が衣装につぎ込まれるという。05年末に公開された「男たちの大和−」では興収51・5億円の大ヒットを記録したものの「大奥」は興収22億円と、目標の40億円には届かず、今作での巻き返しが期待されている。
http://news.livedoor.com/article/detail/3341438/

松方弘樹の信長かぁ、どんなんだろう・・・・

渡部篤郎の秀吉はかなり良さそうですね。

中村獅童の家康ですか・・・
ちょっとイメージわきません。無理があるのでは!?

そして、茶々(淀殿)を演じるのが元宝塚宙組の男役トップスター・和央ようか
http://www.yokawao.com/index.html
身長が174cmというから、すらっとしていますよね。
戦国時代に174cmの女性はあまりいなかったと思います。
たぶん着物だから違和感は無いと思うけど。
どんな茶々を演じてくれるのでしょうか?
これもなかなか楽しみな映画ですね。

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2007年10月07日

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命運懸けた決断戦国の軍議再現 一関で唐梅館絵巻

戦国時代、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開いた千葉一族の軍議を再現する第7回唐梅館(からうめだて)絵巻が30日、岩手県一関市東山町にある唐梅館総合公園で行われた。

 よろい姿の市民ら333人が中心街から同公園までを練り歩いた後、軍議を開催。重臣らの前で、総大将の千葉広胤(ひろたね)役の俳優、あおい輝彦さんが、秀吉軍へ参加しないという口上を大声で読み上げた。武者全員で気勢を上げると、観客から盛んな拍手が送られた。

 唐梅館は、葛西氏の重臣・千葉一族の居城で、1590年に豊臣秀吉が出した小田原参陣の命に対し、従うか否かをめぐって軍議を開いたとされる場所。従わなかった一族はその後、秀吉に滅ぼされた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071001-00000019-khk-l03

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2007年09月30日

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「風林火山」大河史上初の1話延長 - 49話から50話に

 内野聖陽(39)が主演しているNHK大河ドラマ「風林火山」が26日、東京・渋谷の同局でクランクアップした。

 内野は「一瞬一瞬真剣勝負でやってきた。いろいろ思い出したら自動的に涙が流れて…」とこらえきれず涙。共演者も駆けつけ抱き合って祝福。上杉謙信を演じたGackt(年齢非公表)は「山本勘助、見事じゃ」、武田信玄役の市川亀治郎(31)は「勘助、誠にあっぱれであった」、由布姫役の柴本幸(23)は「勘助、愛していました」と、それぞれ役になりきりねぎらった。

 同局は1話増やして全50話(最終回は12月16日放送)にすることを決定。「川中島の戦いのシーンで、謙信と信玄の一騎打ちなどたくさんの熱演シーンが撮れたため」としている。開始後に放送回数が増えるのは、大河史上46作目で初めて。

http://news.goo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/kfuln20070927006002.html

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2007年09月21日

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黒田如水(黒田孝高 よしたか)が築城した中津城が売りに出ていると言う。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/09/18/02.html

黒田孝高という男は終には天下人となった豊臣秀吉に仕え、その軍師として竹中半兵衛とともに秀吉の二兵衛[にひょうえ]と呼ばれ双璧をなした。
黒田孝高や黒田如水というより、通称の黒田官兵衛の方が有名かもしれませんね。

黒田官兵衛なくしては、秀吉の天下人達成はなかったと断言できるほどすばらしい働きをしています。

官兵衛が本領を発揮しだしたのは捕虜という苦境から助け出された時からでした。
荒木村重が信長に謀反を起して有岡城[伊丹城]に篭城した際、直談判をしに乗り込みましたが、
逆に捕らえられ、一年も狭い土牢に閉じ込められたのです。足が曲がってしまうほどの狭い土牢だったそうです。
実際その後は、歩行すら困難になりましたが、
武芸ではなく智謀・知略を必要とする軍師にとって、足の障害も致命的な痛手にはならなかったようです。
後に黒田官兵衛はキリシタンになりますが、この頃の辛い思いや、のちの梅毒への罹病が影響していたのかもしれません。

そしてこの時のエピソードは良く知られていますね。
官兵衛がなかなか戻ってこないので、信長は官兵衛が荒木村重側に寝返ったと思い、信長に(秀吉預かり)人質として入れられていた官兵衛・嫡男の松寿丸[長政]を処刑しようとしましたが、
病身の竹中半兵衛の機転(秀吉の了解の下、密かに信長の命に逆らい保護した)により、松寿丸の処刑は危うく免れています。本当に危ないところでした。
ここで松寿丸が殺されていたら、その後のしがらみで官兵衛の活躍も無かっただろうから、当然、秀吉の天下も無かったかもしれない。
後の関が原で一番武功を立てた黒田長政もいなかったのですから、家康の時代も来なかったかもしれません。
言い始めたらキリがありませんが、これが歴史の面白さです。
ちなみに竹中半兵衛は官兵衛が救出される半年前に、三木城攻めの本陣・平井山の陣中で病死しています。

その後は秀吉の軍師として、旭日天に昇る勢いの活躍を見せます。
因幡・鳥取城の兵糧攻め、備中・高松城の水攻め、賤ヶ岳の戦い[しずがたけのたたかい]、小牧・長久手の戦い[こまきながくてのたたかい]、四国平定、九州平定、小田原攻めなど、
秀吉の中国遠征以降、殆どの重要な合戦で各種名案を策し、展開していきます。

そして、この城・中津城の話に戻りますが、築城年は天正16年(1588年)です。

この頃の流れを見て見ましょう。
天正16年というと、いよいよ秀吉の天下取りも終盤戦に差し掛かってくる頃でした。
四国や九州の平定が終わり、
秀吉の命によりキリスト教を棄教し、
嫡男の黒田長政に家督を譲って隠居した頃です。
つまり、黒田孝高が如水軒と号し隠居した後に暮らした本拠地・城が中津城です。
隠居と言っても長政に家督を譲り、黒田如水となってからも秀吉に仕え、
小田原征伐や文禄・慶長の役の朝鮮出兵にも参加しています。
これでは隠居と言えませんね。
その朝鮮出兵の際に石田三成とごたごたがあり、黒田如水は引退し中津城に篭りました。
秀吉が死んだ後は京都に行き、伏見屋敷ですごしたりしていました。

そして、またもや戦場に呼ばれることになります。
慶長5年 1600年、ご存知の関が原の合戦が起こります。
九州に移動していた黒田如水は家康方の東軍につきました。
秀吉恩顧の黒田如水がなぜ東軍についたのでしょうか?
秀吉が死んだ後、黒田氏は急速に家康方に近づいていくこととなります。
さすが一流の軍師です、時代の流れにのる才にも長けていました。
決定的なのは嫡男の長政の正室が家康の養女だったことと、先に触れた石田三成との確執が家康方についた理由だと思われます。
如水は引退していたため常備軍が無く、1万の即席の軍勢を従えて九州の西軍・大友義統と戦い勝利を収め有終の美を飾っています。
農民をも含む即席軍を指揮し、勝利してしまうのがすごい。
一方、長政は関が原で一番武功を上げ、家康より筑前名島52万3000石を与えられています。

その後、黒田如水は中津城から福岡城に越して完全に引退し、長政は徳川幕府において初代福岡藩の藩主となります。

中津城はこういう時代と人物に使用された由緒・歴史のある城なのです。
その城がたった3億で売りに出されています。3億では安すぎる。
天守閣は鉄筋コンクリートに作りかえられているそうですが、そんなことはまったく気にしないでよいでしょう。
背景やストーリーが大事です。
戦国時代ファンとしては本当に欲しいと思ってしまいました。

3億じゃ絶対買えませんが笑

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2007年08月27日

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Gackt謙信出陣!白馬にまたがり軍勢447人鼓舞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070826-00000055-sph-ent

 歌手のGackt(年齢非公表)が25日、新潟・上越市の春日山で「第82回 謙信公祭」に参加した。NHK大河ドラマ「風林火山」(日曜・後8時)で演じている上杉謙信として、447人の武者を率い、武田信玄軍との川中島合戦へ出陣行列。ドラマでも着用したよろい姿で白馬にまたがり、「いざ出陣!」と軍を鼓舞するGackt謙信に、沿道に詰めかけた約5万人のファンが熱狂した。

 Gackt謙信が、ゆかりの地でついに“出陣”した。

 午後5時半。春日山交差点に集結した447人の軍勢の間を、甲冑(かっちゅう)姿で白馬にまたがったGacktがさっそうと駆け抜けた。刀を抜き、二重三重に膨れ上がった沿道の人垣を見渡すと「皆の者、我に続け! これより武田信玄を成敗しに参る」と絶叫した。

 「越後の龍」と呼ばれ、「我こそ毘沙門天なり!」のセリフで有名な謙信公。「龍」「毘」の旗を掲げた武者たちの「エイ、エイ、オー」の勝ちどきと、ファンの「Gacktかっこいい!」という黄色い声援が飛び交う中、Gacktは初のオリコンチャート1位を獲得したシングル「RETURNER~闇の終焉~」をバックに約900メートル、出陣行列を率いた。

 戦国さながらのリアルな川中島合戦再現で有名な「謙信公祭」は、今年で82回目。主催の上越市のラブコールを受け、大河ドラマで謙信を演じるGacktが参加。NHKの若泉久朗チーフ・プロデューサーが「馬に乗っているシーンを拝見して、謙信をやってほしいと思った」という巧みな騎乗ぶりと、ライバル武田軍の軍師で「風林火山」の主人公でもある山本勘助役の内野聖陽(38)が「なんて美しい」とため息をついたビジュアル系謙信を披露した。

 春日山城史跡広場では「2度の震災を乗り越えた上越に時を超えてやって来た。皆の者、勇気を出せ。我とともに立ち上がれ!」とあいさつし、かっさいを浴びたGackt。祭りは26日も行われるため、この日の観衆の人数は発表されなかったが、上越市などによると例年は2日間で約5万人。今回は25日だけで約5万人が集まり、関係者は「今年は間違いなく例年の倍は人がいる」。Gackt効果で約10万人が謙信生誕の地を訪れることになる。

 ◆「風林火山」川中島合戦収録済み 大河ドラマ「風林火山」のクライマックスとなる川中島合戦に向けて出陣したGackt謙信だが、川中島合戦シーンの収録は既に終えている。10日に行われたロケでは「見応えあるものになっていると思う」と自信を見せていた。ドラマは9月にクランクアップ予定で「まさにラストスパートです」とNHK関係者。Gacktはこの日も上越のファンに「みなさんの笑顔を見られてうれしかった。また『風林火山』で会いましょう」とメッセージを残した。

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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謙信公祭:Gacktさん、カッコイイ /新潟
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070826-00000117-mailo-l15

戦国時代に活躍した越後の武将、上杉謙信の遺徳をたたえる「第82回謙信公祭」(同祭実行委員会主催)が25日から2日間の日程で上越市春日山地区で始まった。メーンの出陣行列にはタレントのGackt(ガクト)さんが謙信役として登場。沿道は野外ライブさながらの盛り上がりを見せた。
 出陣行列は上杉軍と甲斐・信濃の武将、武田信玄軍とにそれぞれ分かれ、川中島の合戦場に向かう様子を描いた。今回は447人と例年の倍以上の参加者があった。謙信役はこれまで、甲冑(かっちゅう)に白いずきん姿を踏襲してきたが、今回、GacktさんはNHK大河ドラマ「風林火山」の謙信の役柄に合わせ紺色の甲冑に長い髪をなびかせて登場。市民や観光客から「ガクトー」「カッコイイ」の歓声がやまなかった。
 居城だった春日山城跡を望む県道63号交差点では、剣を抜いて白馬を走らせる派手なパフォーマンスを披露=写真。観光客らも一緒に「エイエイオー」と勝ちどきの声を上げていた。

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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