2009年10月31日

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天下統一を狙う織田信長に対抗した本願寺勢力が、11年間にわたって拠点にした石山本願寺。大阪城天守閣(大阪市中央区)近くで見つかった少量の土器片は、覇権争いが繰り広げられた戦国絵巻をほうふつとさせる成果となった。

 歴史教科書にも登場する石山本願寺は、戦国史研究にとって重要な寺院にもかかわらず、実態はほとんど分かっていない。寺があったとされる現在の大阪城公園内は大半が国特別史跡で、観光客でにぎわう場所でもあり、発掘調査が困難なことが大きな理由だ。

 こうした中、平成19年の調査はわずか50平方メートルだったが、年代が特定できる土器や石山本願寺炎上に結びつく土壁などが見つかった。佐藤隆・大阪市文化財協会事業担当係長は、天正10(1582)年の本能寺の変で炎上した本能寺跡(京都市中京区)出土の土器などと丹念に比較しながら、16世紀後半と特定したという。佐藤係長は「見つかった土器は石山本願寺が勢力を誇った時期とほぼ合致した」と話す。

 中近世に詳しい松尾信裕・大阪城天守閣館長(考古学)は「土器の年代は石山本願寺の時期でほぼ間違いない。現在の大阪城にあったとする説を裏付ける成果だ」と評価。土器が大坂城築城時の造成土の中にあったことから、「発掘現場から近い場所に石山本願寺の中心施設があった可能性が高い」と指摘した。

 石山本願寺は信長の攻撃に備えて、要塞(ようさい)を思わせる堀や土塁を築いたとされ、石山合戦でも信長側の占領を許さなかったという。松尾館長は「石山本願寺は信長勢に屈しないほど難攻不落で、まさに城郭というべき寺院だった」とし、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが「旧城」と記した点については「フロイスが城郭と感じるほど堅牢(けんろう)だったからだろう」と話した。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/318995/

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大阪城天守閣(大阪市中央区)北側で、16世紀後半の素焼きの土器や焼け焦げた土などが市文化財協会の発掘調査で見つかっていたことが30日、分かった。同協会の佐藤隆事業担当係長によると、織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦の舞台で天正8(1580)年に炎上した当時の浄土真宗本山「石山本願寺」跡の可能性が高いという。石山本願寺は炎上後、豊臣秀吉が大坂城を築いたとされているが、これまで明確な痕跡は見つかっておらず、幻の寺院の存在を裏付ける資料になりそうだ。

 調査は、国特別史跡・大坂城跡整備に伴い、平成19年に約50平方メートルの範囲で行われた。地下約4メートルの地層から、「土師器(はじき)」と呼ばれる素焼きの土器の破片8点、焼けた土や土壁の破片が確認された。ただし、調査当時は土器の年代特定が困難だったことなどから、石山本願寺との関連は不明だった。佐藤氏が、土器の形や出土した地層を詳細に調べた結果、土器は天文年間(1532~55年)の後半から、天正8年までに使われた可能性が高いことを突きとめた。

 さらに、土器が見つかった層や、直上の層は土が厚さ約1メートルにわたって積み重なっており、石山本願寺焼失後、大坂城築城に伴ってこの一帯が大規模に造成されたことが分かった。

 発掘調査では、石山本願寺に関連する建物跡などは見つからなかったが、土器は石山本願寺にいた僧らが儀式や日常生活などに使ったと推定。焼けた土壁は、天正8年に炎上した石山本願寺の施設の一部とみられるという。

 石山本願寺については、当時、日本に布教にきていたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが母国に報告した中で「豊臣秀吉の大坂城は旧城(石山本願寺)の堀の中に築かれた」と記されていることなどから、現在の大阪城公園内にあったというのがほぼ定説になっている。

 ただ、明確な遺構が見つかっていないため場所は特定されていない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091031-00000051-san-soci

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2009年06月19日

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信長の町「安土」さらば 合併案可決で「近江八幡市」に
安土町と近江八幡市
 滋賀県安土町の町議会は15日、近江八幡市との合併を決める廃置分合(合併)議案を賛成多数で可決した。近江八幡市議会はすでに合併議案を可決しており、来年3月21日には新たな近江八幡市が誕生する。戦国の世、織田信長が安土城を置き、中世ヨーロッパにも伝えられた「安土」の名が自治体名から消える。

 安土町と隣接自治体との法定合併協議は過去2度にわたり破談、3度目でようやく合意した。02年は現在、東近江市となった隣接2町と協議。名前は「安土市」と決まったが、協議先の町議会の反対で頓挫した。05年には近江八幡市との合併構想が浮上。名前も「安土八幡市」と決まっていたが、今度は町民の反発で破談に追い込まれた。

 今年4月、合併市町村への財政優遇措置を盛り込んだ合併新法の期限切れが1年先に迫ったことから、安土町は近江八幡市との合併協議を再開。だが、前回、町側の事情で合併がつぶれた市側は、新市名を「近江八幡市」のままにすることを主張した。

 安土は信長ゆかりの地として有名。16世紀末に日本を訪れたポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが著した「イエズス会年報」の中でも「ANZUCHI」と紹介している。一方、近江八幡は豊臣秀吉のおい秀次が築いた城下町。近江商人発祥の地でもある。最終的には町側が妥協し、安土の名が消えることになった。

 現在、町では合併推進の津村孝司町長へのリコール運動が起きており、リコール署名に有権者の3分の1超の町民が署名。津村町長が一部を無効とする異議を申し立て町選管が再審査中だ。ただ、住民投票で町長のリコールが成立して合併反対の新町長が誕生しても、議会で議決された合併が覆ることはない。
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK200906160005.html

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2009年06月08日

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<豊臣秀吉>死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ

 肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13日に名古屋市で開かれる日本病跡学会で発表する。

 かっけはビタミンB1不足で起きる。足のしびれ・むくみが典型的な症状だが、下痢や失禁、精神錯乱、心不全なども引き起こす。食事が白米中心だとかかりやすく、かつては富裕層に多かった。

 若林さんによると、当時の宣教師がイエズス会に送った報告書に、秀吉が死の直前の約2カ月間、下痢を患って狂乱状態に陥ったとある。別に失禁の記録もあり、いずれもかっけの症状と合うという。

 若林さんは「かっけで死亡したとされる徳川14代将軍・家茂(いえもち)と症状が同じ。なぜ今まで『秀吉かっけ説』が提唱されなかったのか不思議なくらいだ」と新説に自信を見せている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090608-00000119-mai-soci

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2009年05月31日

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織田信成、6月2日 本能寺で必勝参拝 / フィギュア

バンクーバー五輪を目指すフィギュアスケート男子の織田信成(22)=関大=が、6月1日に一族の宿命の地、本能寺(京都市中京区)に参拝することが29日、分かった。くしくも先祖にあたる戦国武将、織田信長が自刃した「本能寺の変」は天正10年6月2日(西暦では1582年6月21日)。同寺で「信長公忌」が行われる先祖の“命日”を前に手を合わせ、五輪シーズンへと出陣する。

 フィギュア界の天下統一へ命運をかけた“合戦”を前に、信成が宿命の地に立つ。6月1日、新シーズンへの必勝祈願と武運長久を願い、本能寺に参拝することが決まった。

 織田信長が重臣・明智光秀の謀反に倒れた「本能寺の変」は天正10年6月2日。参拝日はくしくも“命日”の前日にあたる。本能寺で毎年、信長の供養を行っている2日の「信長公忌」を前に、17代目の末裔(まつえい)にあたる信成が同寺を参拝。信長ゆかりの大刀が納められた墓石が立つ信長公廟(びょう)で手を合わせる予定だ。

 「ご先祖さまがいらっしゃるから信成さんがいらっしゃる。感謝の意を込めて、お参りされるのは大変いいことだと存じます」と同寺広報担当者。信長が上洛中の宿所としていた本能寺は織田家にゆかりが深く、現在でもドラマや映画で信長役を演じる俳優が参拝することで知られる。志半ばで自刃した信長に思いをはせ、天下統一への思いを高めるにはうってつけの場所だ。

 “合戦”へ備えは万全だ。信成は29日夜、約2週間の米国滞在を終え、帰国した。渡米中はニコライ・モロゾフ・コーチの下、五輪に向けた新プログラム作りにも着手。6月14日には関大のイベントにゲスト出演。同19-21日には浅田真央(中京大)らとともに「ドリーム・オン・アイス2009」(新横浜スケートセンター、産経新聞社など主催)でエキシビションを披露し、新シーズンを本格始動する。

 昨季はバイクの飲酒運転発覚による謹慎期間という、辛い反省の時を経て劇的な復活を遂げた。「負けたくないし、五輪に出場したい」と誓う一世一代の戦いを前に、信成の野望がうずき出した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090530-00000015-sanspo-spo

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2009年05月14日

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NHK、大河ドラマ「天地人」でサブリミナル的?演出

 NHKが今月10日に放送した大河ドラマ「天地人」の中で、肉眼で確認できないほど短いカットを挿入し、人の潜在意識に働きかける「サブリミナル手法」に似た演出を使っていたことが、13日わかった。

 NHKによると、本能寺が爆発するシーンの直前、ドラマタイトルの「天地人」に対応する空、水田、明智光秀役俳優の横顔の3カットが計0・2秒間挿入され、複数の視聴者から「サブリミナル映像ではないか」という問い合わせがあった。

 映像作品のサブリミナル的手法については、1994年の映画「RAMPO」で論議を呼び、NHKは「通常知覚できない技法で、潜在意識に働きかける表現はしない」とする自主基準を定め、日本民間放送連盟も「公正とはいえず、放送に適さない」という放送基準を示している。

 NHKは、「死を目前にした織田信長の気持ちを印象的に伝えるための演出。短いながらも知覚できるカットで、サブリミナル手法にはあたらない」と説明している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090514-00000023-yom-ent

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2008年11月23日

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戦国期激闘の痕跡
長浜・横山城遺跡 防御用切岸など出土

敵を防ぐために設けられた切岸の遺構(長浜市の横山城遺跡で) 戦の際、刀の鞘から外れたとみられる鐺

敵を防ぐために設けられた切岸の遺構(長浜市の横山城遺跡で) 戦の際、刀の鞘から外れたとみられる鐺  長浜市東部の横山城遺跡で、16世紀後半のものとみられる、刀の鞘(さや)の先端部にはめる金具「鐺(こじり)」が県内で初めて出土し、市教委が20日、発表した。防御のため斜面を削った切岸(きりぎし)、土塁の基礎となった石列などの遺構も検出されており、織田信長らが足を踏み入れ、激戦の舞台となった同城の実像が浮かび上がってきた。

 市教委によると、同城は京極氏によって築かれ、浅井氏の手に渡った時期を経て、姉川の合戦(1570年)の際は、信長の軍が浅井氏攻めの拠点と位置付け、陣取った。主要な施設は横山の南北2か所にあったと推測されているが、これまで建物遺構は出土していない。

 今年8月、市教委が標高300メートル付近の3か所(計約50平方メートル)を発掘。雑兵を配置する曲輪(くるわ)の跡から、土師器(はじき)や信楽焼の皿などとともに鐺1点が見つかった。

 楕(だ)円柱形の銅製品で、鞘の先端に当たっていた底部の長径が約3・5センチ、高さ約1・8センチ、重さ約9・4グラム。装飾はなく、雑兵の刀の鞘が戦で破損した際、落ちたとみられる。当時、武具の部品は回収されるのが普通だったので、出土することは珍しい。

 切岸遺構は、曲輪跡の西側、二重の空堀の直上に位置する。高低差約5・2メートルの斜面の土を、長さ約8メートルにわたって削っており、西側の守りの要だったことがうかがわれる。石列(長さ約1・1メートル)も、曲輪付近で検出された。

 長浜城歴史博物館の森岡栄一・副参事(52)は「横山城一帯での戦いについては、文献で知られるだけだったが、今回の発掘結果は、激戦が行われたことを裏付ける貴重な物証だ」と評価している。

 鐺は26日まで市立長浜図書館(0749・63・2122)で展示されている。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20081121-OYT8T00039.htm

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2008年08月21日

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豊臣秀吉が野点楽しむ?宇治川太閤堤跡の庭園遺構から炉の跡

 豊臣秀吉が築いた大堤防「宇治川太閤堤(たいこうづつみ)跡」(京都府宇治市菟道(とどう)丸山)で、石組みの小さな池など庭園とみられる遺構が出土し、宇治市歴史資料館が21日、発表した。

 庭園は、伏見城築城直後の1594年(文禄3年)に築造が命じられた太閤堤と同時期につくられたとみられる。炉の跡も見つかり、同館は「天下統一の最中でも野点(のだて)をしていた秀吉らが茶の湯を楽しんだ可能性がある」としている。

 昨年9月に発見された石積み護岸の南約40メートルの地下約1メートルから出土した。直径20~40センチの岩を円形に積んで囲った小池(直径1・9メートル、深さ20センチ)から、西側の宇治川に向かって、小石を敷き詰めた「州浜(すはま)」が広がっていた。小池の北西には70センチ四方の石組みがあり、中が焦げていたことから炉の跡とみられるという。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080821-OYT1T00817.htm

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2008年06月06日

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旧本能寺跡に「真言」卒塔婆
信長自害の法華宗寺院

京都新聞

 京都市中京区の旧本能寺跡で昨年夏に行われた発掘調査で出土した卒塔婆(そとば)に、密教で使われる呪文(じゅもん)「真言」が記されていることが6日までに分かった。織田信長が明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」(1582年)直後に、焼け落ちた法華宗の本能寺跡で真言宗の僧が死者を供養した可能性があり、戦いの激しさや当時の人々の思いを示す貴重な遺物になりそうだ。

 発掘は昨年7-8月、関西文化財調査会(吉川義彦代表)が行い、変に伴うとみられる焼け瓦やL字形の堀跡、石垣が見つかった。

 卒塔婆は南側の堀から見つかった15本のうちの1本。長さ約40センチで五輪塔の形をしていた。赤外線撮影や文字を浮き立たせる処理を行い解読を進めたところ、「…遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)…」という光明真言が浮かび上がった。裏面には「三界萬霊十方」「眷属(けんぞく)」の文字が見え、不特定多数の死者や一族を弔ったらしい。

 吉川代表は、「日光にさらされ木がやせることによって起こる『浮き字』がなく、どこかの墓にあったものが紛れ込んだ可能性は低い。また堀の底から15センチほど上層の泥から見つかっており、本能寺の変の時期に近い」としている。

 葬送儀礼に詳しい勝田至・京都光華女子大非常勤講師(日本中世史)によると、法華寺院に他の宗派の僧が立ち入り、死者を供養することは通常考えられず、本能寺の変で寺が焼け落ちた状況以外は考えにくいという。

 勝田講師は「光明真言は天台宗でも使われるが、比叡山焼き打ちを行った信長軍を天台宗が供養することはないだろう」とした上で「信長を弔ったにしてはサイズが小さく、真言宗の僧が個人的に、敵味方を問わず供養したのかもしれない」と話している。

 光明真言 「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」と唱える。死者を弔う呪文で、一切の罪業を除くという。

 【卒塔婆に記された文字】

 (表)□遮那摩訶母那羅摩尼(シャノウマカボダラマニ)□□摩(マ)  □□羅波(ラハ)…

 □ □□罪三波羅三波…

 (裏)…□三界萬霊十方□   眷属須□

京都新聞

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2008年05月25日

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行方不明だった屏風絵 狩野永徳作だった

狩野派の屏風(びょうぶ)絵で、数十年にわたり行方不明だった逸品の存在が、最近ふたたび確認された。しかも、新たに調べた専門家は、安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳(1543~90)の作と判断した。織田信長や豊臣秀吉が重用した永徳は、真筆と目される作品が約10件しか現存していない。

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見つかった狩野永徳の「松に叭叭鳥(ははちょう)・柳に白鷺(しらさぎ)図屏風(びょうぶ)」のうち左隻
http://www.asahi.com/culture/update/0523/images/TKY200805230320.jpg
見つかった狩野永徳筆の「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」のうち右隻
http://www.asahi.com/culture/update/0523/images/TKY200805230321.jpg
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 見つかったのは、六曲一双(6枚折りの屏風が左右1隻ずつ対となる)の「松に叭叭(はは)鳥(ちょう)・柳に白鷺(しらさぎ)図屏風」。右隻は、渓流のほとりに松が太い根を張り、黒い叭叭鳥(水墨画などによく描かれた鳥)が13羽。左隻はやはり太い幹の柳と池、それに16羽のシラサギが配されている。両隻とも水墨画で、高さ160.5センチ、幅約350センチ。墨の色も濃く、力動感あふれた作風だ。

 もとは、実業家で古美術品収集家としても知られた原三渓(1868~1939)の所蔵品で、当時は永徳の祖父・元信(1476~1559)作の「鷺烏(ろう)図屏風」と考えられていた。原の所蔵品売り立て目録「松風閣蔵品展観図録」に写真が載り、その後は数十年、在りかが分からなかった。

 辻惟雄(のぶお)・東大名誉教授(日本美術史)は約40年前から、写真しか手がかりのなかったこの作品を、元信でなく永徳の作だと推測していた。最近になって、古美術商から情報がもたらされ、都内の画廊でついに作品と対面。樹木の根や岩の描き方など、作風から、やはり永徳と判断した。

 永徳には京都府・大徳寺聚光院に残る国宝「花鳥図襖(ふすま)」がある。今回の屏風はよく似た作風から、辻さんは、それより少し若いころの制作と推定している。

 作品は7月8日から東京国立博物館平成館で開く「対決―巨匠たちの日本美術」展に出品されることが決まった。
http://www.asahi.com/culture/update/0523/TKY200805230315.html

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2008年03月04日

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新説「本能寺の変」名場面はウソ? 信長、宿泊は専用御殿
産経新聞

 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。

 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。ドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が出てきた。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものと分かった。

 今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺がよそに移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には、「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080304-00000056-san-soci

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2008年03月03日

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なぜこれほど不用心だったのか…信長の個性裏付け

戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。

 「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。それと遺物、とくに瓦の量などから大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないでしょうか」

 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は、こう話す。遺構の伸び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。この場所に、信長の御殿があったことは疑いないという。

 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。圧倒的な兵力(1万3000人)の明智軍を前に、信長はあっけなく自害。戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったということのようだ。

 それにしても、信長はなぜこれほど不用心だったのか。今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が叛くとは、考えてもいなかった」とみている。光秀の謀反の理由については、(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆(そそのか)された-などの説が唱えられている。

しかし、今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨(えんこん)説は考えにくいとする。やはり、本能寺に少人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と、決断したとみている。

 また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。(1)関白(2)征夷大将軍(3)太政大臣-の3説があるが、今谷教授は「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。一方、脇田修・大阪歴史博物館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある太政大臣ではないか」とみている。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031414006-n1.htm

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信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説

「本能寺の変」(1582年)のおり、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったいう新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。テレビドラマで繰り返し放送される、大きな本堂前で奮戦する信長は虚像とわかった。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある「■(能の異体字)」の文字瓦などが見つかった。西側調査地からは、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものとわかった。

 信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、信長は「変」の2年前にあたる天正8(1580)年2月、京都での宿舎を妙覚寺から本能寺に移すことを決め、所司代の村井貞勝に普請を命じた。

 本能寺を始めとする日蓮宗寺院は、「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」(1536年)をきっかけに京都から追放されたのが許され戻ってきたばかりで、本能寺も「信長軍に占拠され、寺僧はすべて追放されていた」とする意見も出されていた。

今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺が他所に移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には「ほぼ同時代に建てられた園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい住宅用御殿が建っていた」とみている。

 権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)や徳川家康の二条城などが有名。これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠を移そうと意図していたと推測している。

 小島道裕・国立歴史民俗博物館准教授(日本中近世史)の話 「信長が本拠を安土から大坂に移そうとしていたのは、後継者の秀吉が大坂城を築いたことからも可能性が高い。京都については、あくまで臨時の宿舎なので、小規模だったのだろう。興味深い説と思う」

 本能寺の変 甲信から京都にかけてを制圧した信長は天正10年5月29日、中国攻めのため、わずかな供を連れ京の宿所だった本能寺に入った。6月2日未明、明智光秀の軍1万3000人が急襲、信長は妙覚寺にいた長男・信忠とともに討たれた。信長49歳。天下統一の業は秀吉に受け継がれた。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031411005-n1.htm

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2008年02月09日

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安土城の石垣沿い通路は城内だった 2カ所目の「虎口」発掘
中日新聞

 織田信長が築いた安土城(安土町、東近江市)の城跡南側の石垣から、城郭の出入り口「虎口」の遺構が新たに確認され、県安土城郭調査研究所が8日、発表した。近くで昨秋見つかった虎口と同様、防御性は低く、研究所は「石垣に沿った通路は、家臣らが使った城内路であったことを裏付ける発見」としている。

 研究所によると、虎口の遺構は幅約4・5メートル、奥行きは約4メートル。幅約90センチの石段が3段あり、大手門と西側の百々橋口のほぼ中間に位置している。東側に幅約30センチの石組み側溝があり、南側通路の側溝につながっていたとみられる。

 虎口は廃城後、畑になっていた場所の土留め石を取り除き、築城時の石積みを再現する工事の過程で出土した。昨秋、約23・5メートル西で見つかった虎口とほぼ同規模だった。

 これら2つの虎口が確認されるまでは、石垣が城域の南端で、石垣沿いの通路(長さ約400メートル、幅約6メートル)は商人や庶民らが通行した城外路だったとみられていた。

 ところが、これらの虎口は礎石の規模などから敵の侵入を防ぐ「枡(ます)形虎口」ような重厚な造りではないことが判明した。

 研究所は「通路は武士や家臣らが使った城内路だった」と結論付けた上で、近世城郭と同様、内堀が外郭であったとみている。

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080209/CK2008020902086160.html

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2008年02月08日

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安土城の全容解明は後世に
08年度で調査終了、史跡の8割残す
京都新聞

 滋賀県安土町にある国の特別史跡安土城跡の調査・整備事業が2008年度で終了する。これまでに調査が終わったのは史跡指定面積の2割で、織田信長が天下布武の拠点として築いた城の全容解明は後世に託されることになった。

 発掘調査を担当してきた県安土城郭調査研究所は「調査を続ければまだ明らかになることも多かったはず」と落胆している。

 安土城跡の調査・整備事業は1989年度から20年計画で始まった。天主跡や大手門周辺、伝羽柴秀吉邸跡などの屋敷地などを調査、整備し、城の基本構造が次第に明らかになってきた。

 同研究所によるとこれまでに調査、整備を終えたのは史跡指定面積96ヘクタールのうち約17ヘクタール。眺望が開ける八角平は手つかずのままで、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書き記した山中の庭園の有無も確認できていない。主郭部のとりで3カ所も未調査だ。

 すべて整備を終えるには50年から100年は必要といい、財政構造改革を進める県は、計画の最終年度となる2008年度以降は事業を継続しないことを決めた。

 史跡近くを通る県道の改良工事に伴い、信長が京都に上るため整備した「下街道」の発掘調査などの将来構想もあったが、実現の可能性は不透明という。

 同研究所の近藤滋所長は「この20年で基本構造が分かり、ほかの城と比較できるようになってきた。こんな状況だから仕方ないが、防御の遺構などを整備できず、県民の期待に応えることができないのは残念」と話している。

 安土町の津村孝司町長は「やり残したことがたくさんあると聞いている。やがてまた再開できる時が来ると期待している」としている。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020800153&genre;=M2&area;=S00

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2008年02月05日

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新名神に「穴太積み」
甲賀 コンクリ壁の強度上回る

新名神高速道路沿いの東海自然歩道に築かれた穴太積みの石垣(写真:甲賀市甲南町)
 23日に部分開通する新名神高速道路の建設に伴い、滋賀県甲賀市甲南町と水口町の区間脇に付け替えられた東海自然歩道沿いの壁に、大津市坂本に伝わる「穴太(あのう)積み」が採用された。織田信長が築城した安土城など、全国の名城でみられる強固な石垣として知られるが、京都大学大学院などによる施工前の耐力実験で、コンクリートブロック壁の強度を上回るとの初のデータも得られた。伝統技術を継承する「穴太衆」として施工した職人は「先人の技術の高さが立証された」と感慨を深めている。

 新名神は県立自然公園内を通るため、西日本高速道路大津工事事務所が、自然環境との調和などを狙いに穴太積みに着目した。現在残る唯一の穴太衆として全国の城壁修復を手掛ける大津市坂本3丁目の粟田建設(粟田純司会長)が、工事で出た花こう岩を再利用し、2004年3月、高さ3・5メートル、長さ260メートルの石垣が完成した。

 穴太積みは自然石を積み上げ、石垣奥に小さな「栗石」を大量に入れて強度と排水性を高めるのが特徴。目地に詰め物をしない空積みという高速道路工事では珍しい工法になり、安全性を立証するため耐力実験が必要になった。

 現場に高さ3・5メートル、幅8メートルの石積みとコンクリートブロック壁を造り、上部と背後から装置で圧力をかけた。ブロック壁は200トンの圧力で亀裂が入ったが、穴太積みは十数センチのせり出しがあった程度。230トンでブロック壁は壊れそうになり実験を中止したが、穴太積みは250トンの圧力でも持ちこたえ、十分な強度や耐震性があることが裏付けられた。

 東海自然歩道は信楽インターチェンジに近く、重厚な穴太積みはハイカーらの目を引きそう。穴太衆十四代目の粟田純司会長(67)は「耐力実験は初めてだったが『石の声を聴き、石の行きたがるところへやれ』との言い伝えを守った石積みには自信があった。今後は城の修復だけでなく、実験データを基に近代的な建造物にも仕事を広げたい」と話している。

 ■穴太衆 古墳時代(3世紀末-7世紀)に大陸から渡来し、比叡山麓(さんろく)の大津市穴太あたりを本拠とした石工集団がルーツとされる。比叡山の石垣構築や修理を担い、戦国時代、全国各地の城郭の石垣づくりで名をはせた。諸説あるが、西日本を中心に現存する全国の城のおよそ8割を手掛けたという。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008020300035&genre;=K1&area;=S10

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2008年01月20日

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信長像迫る 収蔵品205点
家康への文書や画

県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で19日、企画展「信長と安土城―収蔵品で語る戦国の歴史」が始まった。安土を拠点に天下統一を目指した織田信長の事績などについて、205点の収蔵品を前・後期に分けて公開する。

 1992年11月に開館した同館の15周年を記念して企画した。前期(2月24日まで)では、浄厳院(安土町)が所蔵する黒の束帯姿で右手を笏(しゃく)の上に乗せた「織田信長画像」や、10年ぶりに一般公開されたビロード地に金糸で織田家の家紋と龍が描かれた信長所有の陣羽織のほか、長篠の合戦後、信長が徳川家康に送った文書などが並び、信長ファンらを楽しませている。

 観光で訪れたという川崎市中原区、主婦清水朱美さん(61)は「もし、本能寺の変で信長が死ななければ、世の中はずいぶん変わっていたと思うと興味が尽きない」と話していた。

 20日には同館学芸員が「信長文書を読む」、2月17日は「絵図・地図で見る今昔」と題して講座を開く。いずれも午後1時30分~3時で、無料。定員140人(先着順)。

 3月30日までの午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)。大人350円、高校大学生250円、小中学生150円。月曜休館(祝日の場合は翌日)。問い合わせは同館(0748・46・2424)。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20080119-OYT8T00670.htm

期間: 平成20年1月19日(土)~3月30日(日)
開館時間: 午前9時~午後5時 (ただし入館は午後4時30分まで)
入館料: 大人350円(280円)高大生250円(200円) 
小中生150円(120円)
※( )は20人以上の団体料金です。
※「信長の館」との共通券もあります。
休館日:月曜日(祝・休日を除く) 
但し、2月11日(月)は開館し2月12日(火)は休館します。
主な展示資料(◎は重要文化財、□は県指定文化財、△は市町指定文化財)

◎鉄鐔(摠見寺蔵)・△織田信長像(摠見寺蔵)・六角義賢書状・□六角氏式目(個人蔵)・□崇永版大般若経(正禅寺蔵)・近江堅田関係書状集・織田信長判物・安土記・伝織田信澄所用鎖帷子(個人蔵)・勝楽寺文書・豊臣秀吉画像復元模写(原本:多賀大社蔵)・長篠合戦図・安土城跡出土鯱瓦片・徳川家康画像・近江膳所城絵図・金沢城内絵図・□竜王町左右神社文書(左右神社蔵)△安治区有文書(安治区蔵)・□霊仲禅英墨蹟(曹源寺蔵)など200点余を前後期に分けて展示します。
http://www.azuchi-museum.or.jp/

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2007年12月28日

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信長の「敦盛」、福岡の幸若舞保存会が4年がかりで復元

 「―人間五十年、げてんの中(うち)をくらぶれば……」と、織田信長が桶狭間の戦いの前に舞い謡ったとされる幸若舞の敦盛。節回しがわからず「伝説の舞」とされてきたが、国内で唯一、幸若舞を伝承している福岡県みやま市瀬高町の幸若舞保存会(会長=松尾正巳第30代家元)が4年がかりで節をつけ、来年1月20日、同市の大江天満神社で初披露する。

 復元作業の中心となったのは第27代家元の江崎恒隆さん(77)。町に合併話が持ち上がり、「合併すれば伝統芸能が廃れてしまう」と危機感を持ったのがきっかけ。敦盛は能の舞台では演じられるが、「人間五十年……」の謡い回しがなく、動きも幸若舞とは異なる。敦盛をよみがえらせ、幸若舞の保存活動の後押しにしたいと考えた。

 幸若舞は口伝のため、台本は残っていても節回しの手がかりはない。ただ、戦いの場面では速いテンポで勇壮に声を出すなど、場面や感情によって節回しが共通という特徴があった。このため現存する8曲から似たような情景、感情に使われている節回しを探し、一つずつ当てはめていった。

 だが悲哀、恋慕などの表現には多様な節回しが存在し、作業は難航。地道な作業の末、7月に完成した。

 江崎さんは「『敦盛を見たい』という期待の声にやっと応えられる」と連日、練習に励んでいる。本番で舞う松尾さんは「節回しに違和感はなく、信長が舞い謡ったものだと自信を持っている」と胸を張る。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_07122855.htm

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2007年12月27日

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旧本能寺の建物跡が初出土 周辺からは「変」の焼土
朝日コム

 織田信長が明智光秀の謀反で自害に追い込まれた「本能寺の変」(1582年)の舞台になった旧本能寺跡(京都市中京区)で、建物の痕跡が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が26日、発表した。建物の痕跡の発見は初めてという。

 マンション建設に伴う約100平方メートルの発掘調査で、16世紀中頃の建物の柱の礎石を支えたとみられるこぶし大の石が数十個集まった「集石(しゅうせき)」が3カ所で見つかった。集石は約2・4メートル間隔で、何らかの比較的小さな建物があった可能性が高いという。近くから同時代の土器のほか、寺跡内の別の場所でも見つかっている本能寺の変で焼けたと推測される壁土や、寺の銘入り軒丸瓦1点も出土した。

 また、約70メートル南東の別の調査地で寺の南端を示す堀の跡も見つかった。南端は文献によって食い違っていたが、これでほぼ特定できるという。

 本能寺の変の様子は文献で描かれているが、寺の伽藍(がらん)配置はわかっておらず、調査員は「不明な点がまだ多いが、今後の調査につながる成果だ」と話している。

 本能寺はたび重なる火災で場所を変え、1545年に今回の調査場所の付近に移った。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200712260069.html

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2007年12月26日

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本能寺跡で堀の一部見つかる
NHKニュース

織田信長が明智光秀に攻め滅ぼされた京都の本能寺の跡から、戦乱に備えて整備されていたとみられる堀の一部が見つかりました。本能寺の周りに堀があったことは当時の文献にも記されていますが、実際に確認されたのは初めてです。
http://www3.nhk.or.jp/knews/news/2007/12/26/t20071226000120.html

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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