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戦国時代のキーパーソン:上杉謙信


戦国史に興味のある人に好きな戦国時代の武将を上げて質問したら必ず上位に入るのが、上杉謙信で小説やドラマや映画も多数あります。そこで戦国時代のキーパーソンの上杉謙信について知らない人でも解るように、以下に人物像や功績について詳しく紹介して行きます。上杉謙信は、現在の新潟県に位置する春日山城で誕生して、49歳ぐらいまで生きました。父親は長尾為景で、その末っ子として誕生します。幼い頃から、頭が良くて子供でありながら城をどのように攻めたら攻略できるのかを文献で調べて考えてました。だけどどんなに優秀であっても、嫡男が家を継ぐのが当たり前のご時世だったため、戦の火種になりかねないので7歳で出家させられ坊主になりました。

通常は坊主になれば、遊んで暮らす人が多い中で、謙信は武芸や城攻めや内政などをずっと勉強し続けました。転機が起きたのは15歳の時で、合戦続きの越後で兄が討ち死にして出家した謙信も担ぎ上げられて初陣しました。有能な上杉の家臣の助けもありましたが、一度も負ける事無く戦に勝ち続けて、19歳になる頃には上杉家の有力城主の家督を継ぎました。そして兄である嫡男の晴景を助けて、群雄割拠していた越後の地を統一しました。野心がある武将ならば、嫡男から領地を奪う事も良くありましたが、謙信は性格上仁義を重んじており病床の晴景に変わって領地を守ってました。謙信が24歳の時に、兄の晴景が病死してまだ嫡男が小さかった事もあり、越後の地に内乱が起きました。仁義を重んじる謙信は、戦乱を治めるまでの代役として兄を継いで上杉家の当主となりました。その当時隣国の武田信玄が力を付けていたので、それを向かい打つために抵抗勢力である柿崎家を戦で圧倒して僅か数か月で内乱を鎮圧しました。

鎮圧が済むや否や、戦続きの上杉家が疲弊しているのを好機と読んだ武田信玄がすぐに攻め込んできて、川中島の合戦になりました。上杉謙信は準備が不十分でしたが、何度も苦戦するも押し返してライバル信玄と引き分けました。その後何回も信玄がまた攻めてきますが、その都度退けました。特に有名なのが4回目の川中島の合戦で、数に勝る武田信玄が別動隊で分散して挟み撃ちをしようとするきつつき戦法を用いますが、それを見抜いて分散されて数が減った武田軍に特攻をかけて瀕死のダメージを与えました。そこで討ち取る事も出来ましたが、命を取らずに引き上げて行きました。武田軍の後に、織田信長とも戦をしましたが相手を狭い戦場に誘い込んで撃退しました。そして生涯合戦で一度も負ける事無く、関東管領にまで上り詰めた上杉謙信は生涯を閉じました。

⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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