大政所と質素な心 [豊臣秀吉]
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エントク和尚の一分説教
大政所と質素な心
秀吉の母親 大政所 名前は「なか」
秀吉が関白になっても畑仕事をし大名たちに野菜を配っていたという。
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板
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大政所と質素な心
秀吉の母親 大政所 名前は「なか」
秀吉が関白になっても畑仕事をし大名たちに野菜を配っていたという。
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検地帳には「耕地面積」「収穫高」「農民名」が書かれた。
太閤検地はそれまで
一反 = 360歩[ブ] だったものを
↓
一反 = 300歩とした。
その結果、
高山右近の検地で
三百三十二歩だった農民の土地は
↓
太閤検地では
一反三畝[ゼ]二歩になった
太閤検地により同じ土地なのに面積が増えた
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その時歴史が動いた 「豊臣秀吉 天下統一の必勝戦略」~小田原攻めに秘策あり~
関東の名家というプライドからか、最後まで秀吉に抵抗した小田原の北条氏は、終に22万~26万ともいわれる秀吉の大軍に攻められることになる。
北条氏は秀吉軍22万の兵糧は1ヶ月も持たないとふみ、篭城することを決意する。
秀吉は近年、太閤検地と刀狩を行い、確実な年貢の取立てと反対勢力の武力を削減することに成功していた。
と同時にこれは戦時においては、兵糧の安定確保と兵農分離を成功させたため1年中戦える戦闘のプロ集団を、いつでも大量動員できるシステムとして動いていた。
そしてそのシステムは22万の兵を長期にわたって動かし支える力を持つにいたっていた。
結果、天下統一の総仕上げである北条氏討伐戦・小田原攻めも何の苦労もなく成功させている。
苦労するどころか、ごく短期間で小田原城の眼前に巨大な城を築城し北条氏の戦意を喪失させ、秀吉自身は陣にて茶会などを催していたというから、もはや秀吉が天下人になったと誰もが実感した。
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その時歴史が動いた ~もう一人の秀吉~ 豊臣秀長 太閤記 (たいこうき) を演出した弟
豊臣秀長なくして、秀吉の天下人達成はありえなかった。
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エントク和尚の1分説教
秀吉がモテた理由
秀吉の正室おねは前田利家や浅野長政からも求婚されていたが、
おねは秀吉を選んだ。
不細工で貧乏で身分が低い秀吉が、おねと結婚できた理由とは
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先日、エントク和尚の一分説教、豊臣秀吉が肖像画を描かせた際の三条件を紹介しましたが、
今度は大阪城の石の話です。
秀吉は大阪城の石垣を組まさせる際、またもや職人に困難な指示を出します。
それは小さな石から組んで行き、上に大きな石を置けという常識外れな事でした。
たぶん全体にそれをやると崩れるんで一部分だと思います。
そして四国から巨石を運んだと言いますが、その運び方にも技術が必要でした。
活躍したのは京都の石匠たちだったと言います。
なかなか面白い話ですね。
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エントク和尚の一分説教
豊臣秀吉が関白になった時、狩野光信に肖像画を描かせた。
有名な絵なので一度はご覧になったことがあると思うが、
その際に、秀吉は絵師の狩野光信に三つ要望した。
その一 : 大柄に見えるよう描くべし
その二 : どしっとしているように描け
その三 : 美男子に描け
美男子に描けで、この不細工猿顔ということは、元はどんだけ~という話だなこれは。
※狩野光信は狩野永徳の嫡男で父と共に安土城、大坂城、聚楽第などの障壁画を描きました。
永徳の跡を継ぎ、信長が死んだ後は豊臣秀吉に仕えています。
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