徳川家康が眠る 日光東照宮 [徳川家康]
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元和2年[1616年] 駿河国 駿府城、
徳川家康が75才でその生涯を終える時、
「わしの遺体は直ちに久能山に葬り、葬儀は芝の増上寺で、位牌は故郷の大樹寺に置き、1年が経ったら下野国日光に勘請せよ[かんじょう:神として迎える]」と言った。
その遺言どおり翌年の元和3年3月に日光東照宮が落成し家康は八州を鎮守する神となった。
そして二十年後、家康の孫の第3代将軍 徳川家光は費用お構い無しとして日光東照宮の大改築の命を出した。
これを寛永の大造替[かんえいのだいぞうたい]という。
費用お構い無しという結果、総予算は金56万8千両、銀百貫目、米千石、現在のお金に換算すると10数兆円という莫大な資金が投入されたことになる。
藤堂高虎の推薦にて、当時 天才という名を欲しいままにした甲良宗広[こうらむねひろ]を大棟梁として、
豊臣秀吉の大坂城を築城した大工の名工たちを京都奈良から集め、1年5ヶ月という驚くべき短期間で大改築が完了した。
寛永の大造替に関わった人数は述べ460万人弱だと推定されている。
その結果、極彩色に彩られた極楽浄土を思い浮かべるような社殿をはじめとする、贅を尽くした絢爛豪華な陽明門などの建築物の数々が完成した。
なぜ、家光はこのような莫大な予算をかけて日光東照宮を大改築したのだろうか?
それは三代目にもかかわらず家光は自身を「二世権現」や「二世将軍」とし
父親の秀忠を差し置いて二代目だと言っている事から分かるように、両親を憎んでいたらしい。
両親は家光が幼い頃、家光は醜いとして弟の忠長ばかり偏愛したからだ。
だからこそ祖父への強烈な思慕の念が湧いたのかもしれない。
家光が幼い頃に病気に罹った際、家康の調薬により回復したり、
家康の命日と家光の生誕日が17日と同じ事なども、家光をして「東照大権現、心も体も一つ成」と言わしめた所以であろう。
極め付けが、世継ぎ問題である。
秀忠が家光の世継ぎに難色を示し、弟の忠長を推したが、家康の鶴の一声があり家光が3代将軍になったのだともいう。
よって、家光は祖父の家康を崇敬し、神として崇め、
家康の奉られている日光東照宮を家光自身と徳川幕府の精神的拠り所となる聖地として大改築したのだった。
日光東照宮
徳川家康
此処に眠る
日光東照宮は平成11年[1999年]に世界遺産に登録されています。
日光東照宮 公式サイト
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板