2007年12月14日

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元和2年[1616年] 駿河国 駿府城、
徳川家康が75才でその生涯を終える時、
「わしの遺体は直ちに久能山に葬り、葬儀は芝の増上寺で、位牌は故郷の大樹寺に置き、1年が経ったら下野国日光に勘請せよ[かんじょう:神として迎える]」と言った。
その遺言どおり翌年の元和3年3月に日光東照宮が落成し家康は八州を鎮守する神となった。

そして二十年後、家康の孫の第3代将軍 徳川家光は費用お構い無しとして日光東照宮の大改築の命を出した。
これを寛永の大造替[かんえいのだいぞうたい]という。
費用お構い無しという結果、総予算は金56万8千両、銀百貫目、米千石、現在のお金に換算すると10数兆円という莫大な資金が投入されたことになる。
藤堂高虎の推薦にて、当時 天才という名を欲しいままにした甲良宗広[こうらむねひろ]を大棟梁として、
豊臣秀吉の大坂城を築城した大工の名工たちを京都奈良から集め、1年5ヶ月という驚くべき短期間で大改築が完了した。
寛永の大造替に関わった人数は述べ460万人弱だと推定されている。
その結果、極彩色に彩られた極楽浄土を思い浮かべるような社殿をはじめとする、贅を尽くした絢爛豪華な陽明門などの建築物の数々が完成した。

なぜ、家光はこのような莫大な予算をかけて日光東照宮を大改築したのだろうか?
それは三代目にもかかわらず家光は自身を「二世権現」や「二世将軍」とし
父親の秀忠を差し置いて二代目だと言っている事から分かるように、両親を憎んでいたらしい。
両親は家光が幼い頃、家光は醜いとして弟の忠長ばかり偏愛したからだ。
だからこそ祖父への強烈な思慕の念が湧いたのかもしれない。
家光が幼い頃に病気に罹った際、家康の調薬により回復したり、
家康の命日と家光の生誕日が17日と同じ事なども、家光をして「東照大権現、心も体も一つ成」と言わしめた所以であろう。
極め付けが、世継ぎ問題である。
秀忠が家光の世継ぎに難色を示し、弟の忠長を推したが、家康の鶴の一声があり家光が3代将軍になったのだともいう。

よって、家光は祖父の家康を崇敬し、神として崇め、
家康の奉られている日光東照宮を家光自身と徳川幕府の精神的拠り所となる聖地として大改築したのだった。

日光東照宮
徳川家康
此処に眠る

日光東照宮は平成11年[1999年]に世界遺産に登録されています。
日光東照宮 公式サイト

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2007年12月08日

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徳川家康:森繁久彌
石田三成:加藤剛
島左近:三船敏郎
本多正信:三国連太郎
初芽:松坂慶子
丹羽長重:矢崎滋
北政所:杉村春子
鳥居元忠:芦田伸介
大谷刑部:高橋幸治

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2007年11月16日

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葵徳川三代 葵紀行
駿河[府中]と徳川家康

徳川家康が竹千代や松平元康と言われていた幼少期 駿河の人質時代
書き物によっては、この人質時代は非常に辛かったようなことが書かれている。
しかし、この紀行にもあるように、引退後の家康は駿府に移り住み、
その理由を聞かれた際に「故郷の感あり」と言っている。
人質時代の辛い時の感想とは到底思えない。思い出深い懐かしむべき故郷という感想だ。
人質といっても表向きだけで、実際は待遇は良い物だったのだろう。

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葵徳川三代 葵紀行
松平竹千代[徳川家康]は岡崎城で生まれ、幼少期は駿河 今川義元の下で人質として暮らした。
今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると、家康は19才で岡崎城に帰ってきた。
その後、ここから天下取りを目指すのである。
岡崎名物 八丁味噌の話も

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2007年10月28日

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大河ドラマ
葵徳川三代 総括 関が原
関が原の戦いを描く

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2007年10月15日

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徳川家康 第19話 「長篠の戦い」
大河ドラマ「徳川家康」で描かれた長篠・設楽が原の戦い。

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2007年09月04日

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■元亀3年 [1572年]
12月22日
上洛途中の武田信玄が徳川家康に完全勝利した三方が原の戦い[みかたがはらのたたかい]の最中、
家康たちが危ういと聞き、浜松城の留守を守る家臣・夏目正吉(吉信)は居ても立ってもいられなくなり、家康を迎えに早馬を走らせた。
ようやく家康を見つけると自ら囮となり、「我が徳川家康ぞ!!」と敵陣に突っ込んで行き、
家康を無事浜松城に帰した。
そして、討ち死にした三河武士の殆どが浜松の方に頭を向け、うつ伏せに倒れ、
退却する者は浜松のほうに頭を向け、仰向けに倒れ武田に背を向けて死んでいる屍は無かったそうだ。
この話は武田信玄の家臣・馬場信房が信玄に報告した話として伝えられるが、
いくらなんでもこれは作り話だろうと思うのだが、敵である信玄側の情報なので、強ち作り話とも言い切れないのだ。
ともかく家康を中心とした三河武士の絆・団結力や勇猛果敢さには驚かされるばかりである。
ところで、家康は逃げ帰る途中、敗北の情けなさと恐怖のあまり切な糞をもらしたエピソードは有名である。
一時は囮で敵を撹乱できたものの、何度か武田の騎馬武者に追われたらしい。
戦国時代最強の武田騎馬武者に追いかけられる恐怖は凄まじい物があったのだろう。
それでも、家康は生き残っている。実は家康は弓の達人でもあった。
家康は追いかけてくる敵を馬上より弓で射倒しながら、駆けに駆け、難を逃れたという。

ちなみに、囮となった夏目正吉は夏目漱石の祖先に当たるそうだ。

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2007年07月15日

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元亀元年 [1570年]
4月 - 織田信長は徳川家康を従え、朝倉義景[あさくらよしかげ]を討伐せんと越前へ侵攻を開始した。

4月 - 信長軍、敦賀[つるが]の城をはじめ朝倉方の支城を次々と落とし、朝倉の本城 一乗谷城も目前となった今、信長の妹・お市の夫・浅井長政[あざいながまさ]が朝倉方につき突如挙兵する。浅井の領国を抜けて進軍してきた信長は退路を断たれたと言うことになる。信長は前方の朝倉との挟撃を恐れ、已む無く全軍撤退の命を下す。
だが朝倉・浅井の追撃は明白。それ故、信長自身も命をかけ京へ撤退することになるであろう。
その時、木下秀吉は戦局が極めて逼迫しているのを感じ、将来のある徳川家康の殿軍加勢を必死に引きとめ、信長とともに撤退することを説得する。
ついに家康も撤退を決意。こうして殿軍の木下秀吉軍の活躍で無事、信長、家康軍は撤退を完了することになる。

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2007年07月10日

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三方が原の戦いで武田信玄に完膚なきまでに敗北した徳川家康だったが、敗走途中、恐怖でうんこをもらしてしまったと言う。大河ドラマでは焼き味噌とごまかしてましたが・・・

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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