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■元亀3年 [1572年]
10月3日 - 武田信玄軍が甲斐・躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]を出立する。出陣の目的としては15代将軍・足利義昭からの要請で上洛しようとした、または信長を討伐しようとしたと言う説がある。いずれにせよ当時の武田最大動員数の約3万弱の兵を引き連れての出立だったと言うから信玄公人生最大の乾坤一擲[けんこんいってき]の大勝負に出たと言うことだろう。兵は三手に分かれ、信玄率いる本隊は徳川家康領の遠江[とおとうみ]へ、秋山信友率いる伊奈衆が美濃へ、山県昌景[やまがたまさかげ]率いる兵は奥三河へと侵攻した。
12月9日 - 信玄軍、徳川方の支城・二俣城を陥落させる。
12月22日 - 圧倒的兵力の差から浜松城に篭城して戦うつもりだった家康は、信玄軍が浜松城を素通りし敷知郡[ふちのこおり]の三方が原台地へ進軍するのを確認、このまま行かせてなるものかと意を決して篭城作戦から野戦に打って出る。
これが、三方が原の戦い[みかたがはらのたたかい]である。
家康はこの戦いで完膚なきまでに敗北し、敗走途中に恐怖で脱糞したことはあまりにも有名。惨敗した家康だが、圧倒的兵力差を物ともせず野戦に挑んだ家康の名声は高まる結果となった。しかし家康がなぜ城を飛び出したかと言う理由は近年の研究によると、浜松城を素通りしていく信玄に一矢も報いず遣り過せば、あとで信長に叱責されるというのを恐れたためとの説や、家康は通り過ぎていく信玄をじっとやり過ごすつもりだったが、血気盛んな家臣たちが見物と称して次々と勝手に飛び出して行ってしまい、それを連れ戻しに行って戦闘に巻き込まれてしまったと言う説が有力らしい。
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