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■元亀元年 [1570年]
6月28日 - 姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が戦い、織田・徳川連合軍の勝利に終わる。
■天正元年 [1573年]
8月 - 武田信玄が死に、15代将軍・足利義昭の追放によって、所謂、信長包囲網は完全に瓦解した。後顧の憂いを絶った織田信長は浅井長政を討伐せんと3万の兵を率い北近江に侵攻。総勢5千の兵しか持たない浅井長政は成すすべも無く小谷城[おだにじょう]に籠城する。これに呼応し朝倉義景も出兵した。
8月12日 - 暴風雨の中、信長は朝倉方が守る大嶽砦[おおたけ城]を奇襲し陥落させる。
8月13日 - 朝倉義景は大嶽砦の陥落から形勢不利と判断し、撤退の命を下す。
8月14日 - 信長は自ら本隊を指揮し撤退した朝倉軍を追撃し大打撃を与える。刀根坂の戦い[とねざかのたたかい]
8月15日 - 総大将の朝倉義景は自陣の一乗谷城へ逃れる。
8月17日 - 信長、義景に止めを刺すべく越前に侵攻。一乗谷城の戦い。
8月18日 - 信長、一乗谷の街を焼く。
8月20日 - 秀吉の事前工作により、自分の手勢に裏切られ朝倉義景自刃。朝倉氏滅亡。
8月27日 - 信長軍は、北近江に戻り、小谷城に籠城する浅井長政の攻略に取り掛かる。
すぐさま、信長の命が下った。「お市と子を城から救い出せ」。
だが秀吉をはじめ誰もが分かっていた、戦火の混乱時に足腰の弱い女子供を救い出すのは至難の業だと。お市とは言うまでも無く信長の妹であり長政の妻である。信長が下した鉛のごとく重い命令の前に陣中の各ご武人たちは良い案が思い浮かばず、黙ってしまったが、しばらくして秀吉の軍師・竹中半兵衛が良策をひねり出した。「父の久政は頑固一徹で、父の前で長政はいつも遠慮している。久政を引き離せば、長政も安心して、お市母子を道ずれにするようなことはあるまい。」つまり、父の久政を先に討てと言うことだ。
やはり、竹中半兵衛の策は的中した。小丸にいる久政と本丸の長政を分断し先に久政を自害に追い込んだ後、長政に久政自刃を伝えると状況は一変した。長政はお市を開放するとし、城兵の助命を嘆願した。しかし、降伏は武士の意地が許さぬから腹を切ると言うのであった。
裏切り行為には厳罰で臨んで来た信長だったが、何か思うところがあったのだろうか、この時は信長らしくない計らいで、長政に命と開城後の生活を安堵し、何度も降伏を促したという。だが長政は頑として応じなかったという。一方、お市は長政を非常に好いていたらしく共に自害をする心づもりだったらしい。結局、お市は長政に説得され、無事3人の娘とともに小谷城を出た。そして終に長政は城に火を掛け自刃することになる。こうして浅井家は滅亡した。
そして、助け出されたお市は、信長が本能寺の変で死んだ後、信長重臣筆頭の柴田勝家の妻となり、信長死後の家督争いで、秀吉に攻められ柴田勝家と共に自害するのである。娘はそれぞれ、長女の茶々[淀殿]が秀吉の側室となり豊臣秀頼を生み、次女の初は京極高次の妻、三女の小督[おごう]またはお江与[おえよ]は徳川2代将軍・秀忠の妻・崇源院[すうげんいん]となり、3代将軍家光を生むのである。
■天正2年 [1574年]
正月 - 織田信長は朝倉義景、浅井久政、長政の髑髏[どくろ]を薄濃[はくだみ:漆塗り、金粉・金泥を施したもの]にし、白木の台に乗せ酒宴を楽しんだ。自分に逆らって一時は追い詰められもした朝倉・浅井の髑髏を酒の肴に酒を飲み、信長自身は非常に上機嫌だったというが、さすがに家臣たちはドン引きしていたという。死者を冒涜したのか、敬意を表したのか、または何もかもが思い通りになっていく記念にしたのか、信長自身に聞いてみないと分からない事だろう。信長公記には未だかつて聞いたことも無い、珍奇な肴にて酒を飲んだ、とあるのでそれ自体は一般的なことではなかったと思われる。
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