2007年07月22日

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※注意。今回の記事は秀吉の兵糧攻めですが、悲惨な表現があります。

以前、鳥取の渇え殺しとも言われた秀吉の因幡・鳥取城の兵糧攻め[天正9年 1581年 7月~]の事について書いたが、わずかながら信長公記にもその様子が書かれている。

とりわけ城内の悲惨さが目を惹く。

一群の男女がことごとく城内に逃げ込んだ[秀吉の兵が農民などに、いやがらせや乱暴を働いたりした]ので、下々の農民やその他の長期戦への備えが無かった者たちはたちまちに餓死してしまった。つまり、城内では身分の低い者たちは真っ先に死んで行ったと言う事になる。食べ物が均等に分けられ、行き渡ったと言うことでは無いらしい。
現に城主 吉川経家[きっかわつねいえ]やそれに準ずる者たちは切腹する最後まで生き残っているので、限られた兵糧の厳格な管理上、それは当然の事であった。

そもそも同じ城内とは言え、身分の高い連中は城の建物の内部におって、身分の低い者達は敷地内の庭などにおり両者たちは隔離されていたはずである。倉や城の建物内に備蓄されている食べ物は番兵などによりきっちりとガードされ身分の低い者達には分け与えられなかった。

始めのうちは三日に一度、または五日に一度、鐘の音を合図に、雑兵が全員で城の柵まで出てきて木の葉や草を採っていたという。当然、城の外と接する部分は、外を囲んでいる敵兵に鉄砲や矢で射られる可能性があるので危険地帯なのである。また城を囲んでいる敵にしても、多数の雑兵が急に押し出してきたら怯むので、その隙に城内では草取りが行われていたということになる。

今度、自宅の草取りをする時には命がけで草を採った因幡・鳥取城の人たちの事を思い起こしてみると良い。

草や木の葉より稲の切り株が食い物としては上々だったらしいが、何れにせよ常時では人間の食い物ではない。
それらも次第に採り尽くし、今度は鶏、牛馬を殺して喰らい始めた。
現代の感覚では動物の肉を先に喰らうだろうと考えがちだが、当時は肉食の習慣は無かったらしい。
故に草木などを食い尽くした後に、仕方なく家畜や馬となったのだろう。

そして牛馬を食い尽くすと、さらに状況は最悪になり、終には人間の肉をも食い始めた。
餓鬼[がき]のように痩せ衰えた男女が柵際まで寄ってきて、苦しみ喘ぎつつ「引き出して、助けてくれ」と悲しく泣き叫んだ。
これらの者を鉄砲で撃ち倒すと、まだその者に息があるにも拘らず、飢えた人が群がり手に手に持った刃物で手足をばらし、肉を剥がした。五体の中でも特に頭部は味が良いと見えて、一つの首を数人で奪い合って、取った者は首を抱えて逃げていった。[信長公記]

極限飢餓状態とはこういうものなのか・・・
はたまた、こういう事は行われなかったが、何らかの情報操作のために意図的に記述されている可能性も無きにしも非ず。
例えば、共食いをするほどの人たちなのだからと、篭城兵のレベルを下げ、僅かでも侵略や兵糧攻めの正当性を上げるなど。当然、信長公記は信長・秀吉サイドに有利な事が書かれていると思うのだ。

太平洋戦争時の南方戦線では飢餓状態に陥った日本兵達が、仲間や敵兵の人肉を食ったのは事実らしいが、何れにせよ、飽食で平和ボケしている現代人の我々の想像を遥かに絶する世界である。

この秀吉による因幡鳥取城の兵糧攻めは臨時城主の吉川経家[きっかわつねいえ]らが切腹して、開城となり、篭城していた者達は助け出された。

最後に、こう書かれている。

篭城した者達は、餓鬼[がき]の様に痩せ衰えていたので、食い物を与えたら、皆一様に食い過ぎ、大半の者達は頓死[とんし]してしまった。

折角、地獄の苦しみを耐え抜き助け出されたのに、なんとも哀れなことである。

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2007年07月17日

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長宗我部元親[ちょうそかべもとちか]。四国土佐の戦国大名です。一度聞いたら忘れられない名前ですね。

子供の頃の元親はかなりひ弱に見え、家臣からも馬鹿にされていたという。武芸は全くダメで、狩に出ても獲物も仕留められなかった。戦国時代の初陣は15~16才が普通だと思われるが、元親の初陣は22才とかなり遅めだった。初陣に際し、元親のダメっぷりが炸裂する。家臣に「大将は兵の先を行くのか? 後を行くのか?」 と尋ねたという。そして、槍の使い方についても、どう使うのか分からず尋ねたというレベルだった。これでは家臣は初陣どころではなく、討ち死にでもするんでは無いかと心配していたという。
ところが、元親はいざ戦が始まると、いきなり敵兵2騎を打ち崩し、押されても「引くな者ども!!」と声を張り上げて押し戻し、見事初陣を勝利で飾ったという。これを豹変といわずして何というか、という変わりっぷりだった。
そして家督を相続した後、土佐一国を支配し、続いて阿波国の三好氏、讃岐国の十河氏、伊予国の河野氏らを攻略し、終に四国統一を成し遂げ、戦国大名の列に加わることになる。

だが、その統一は苦難の連続であり、統一期間は儚い夢幻の如く短い物であった。信長とその意を継ぐ秀吉という津波のように大きな波が押し寄せてきたのである。やはり天下統一を目指す信長にとっては四国も所詮、地方の一地域に過ぎなかったのだ。

当初、元親と信長の関係は良好だった。信長から嫡男の信親に偏諱を賜り[へんきをたまわり]、正室も信長家臣の親族から迎える[明智光秀の家臣、斎藤利三の異父妹]など友好関係がしばらく続き、四国統一に向けて共闘体制をとっていた。

だが、天正8年、信長は元親にたいし土佐と阿波の所領安堵を条件とし臣従せよと要求してきた。元親はそれを拒絶したため、信長との共闘路線は完全に瓦解してしまった。さらに天正9年信長が対長宗我部元親として手を結んだ三好氏[三好長治みよしながはるの弟・十河存保・そごうまさやす]にも攻められ、完全に信長と敵対し四国制覇を阻まれる形となる。
信長は武田勝頼を天正10年[1582年]3月に滅ぼすと4月に安土城に凱旋し、すぐさま5月に三男・織田信孝に阿波の国を与え四国征伐を命じている。そして運命の本能寺の変が6月2日。ここで束の間だが元親は攻められる心配が無くなり、押し戻している。

信長死後の賤ヶ岳の戦い[天正11年 1583年]では、柴田勝家と手を結んで秀吉と敵対し、さらに天正12年の小牧・長久手の戦いでも、信長次男・織田信雄[のぶかつ]と徳川家康らと共に秀吉に対抗した。二つの戦とも背後から秀吉を脅かしたということになる。

そして終に、天正13年[1585年]、伊予国の河野氏・西園寺氏などを攻略し、四国制覇を達成することになるが、散々こけにされた秀吉が黙っているはずも無く、着々と準備を進めていた秀吉に12万5千とも言われる大軍を四国に送り込まれ、敗北し、最終的には秀吉の軍門に下ることで太平洋側の土佐一国を安堵された。

後に嫡男の信親は秀吉の九州征伐に父の元親と共に加わり討ち死にし、元親本人も帰国後に病死、家督を継いだ4男の盛親は関が原の戦いで西軍[反家康]に付き、最後は大阪夏の陣で捕まり斬首され、ここに長宗我部氏は滅びた。
ここで面白い話があって、実は盛親は当初東軍に加わる予定だったらしい。近江国・水口まで進軍したところで、当地を支配する西軍の長束正家[なつかまさいえ]に進路を阻まれ、無理やり西軍に加わることになってしまったとされている。もし、長束に絡まれず素通りしていたら、長宗我部氏は滅びなくても済んでいたかも知れない。

ところで、みなさん饅頭の話は知ってますか? 豊臣秀吉は天下を統一した後に、各地の大名を集めて舟遊びをしたと言うが、秀吉は自ら大名たちに饅頭を配って歩き、そして皆一様に美味しそうに饅頭を平らげたと言う。ところが、長宗我部元親だけは饅頭の端を千切って一口だけ食べ、残りは紙に包んで懐に入れてしまったという。秀吉は「なぜ全部食べないのだ?」と聞くと、元親は「太閤様より頂いた有り難い饅頭ですので、土佐に帰りましたら家来に分け与えます」と答えたと言う。秀吉は非常に喜び饅頭を全部元親にあげたと言う。そうして、ますます秀吉に気に入られた。人柄の良さが滲み出て、なんとも良い話だが、世渡り上手とも言えなくも無い。これって応用すれば、現代でもどこかの場面で使えますよね笑。作り話なのだろうか・・・

最後に、長宗我部元親は海の男、水軍のイメージなんだろうか。小田原の北条攻めの時には水軍を使い、16メートルもの鯨を生け捕りにし大阪城まで運び、鯨など見たことも無かった豊臣秀吉の度肝を抜き、食べさせたという話は有名だけれどもね。

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2007年07月11日

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■元亀元年 [1570年]
6月28日 - 姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が戦い、織田・徳川連合軍の勝利に終わる。

■天正元年 [1573年]
8月 - 武田信玄が死に、15代将軍・足利義昭の追放によって、所謂、信長包囲網は完全に瓦解した。後顧の憂いを絶った織田信長は浅井長政を討伐せんと3万の兵を率い北近江に侵攻。総勢5千の兵しか持たない浅井長政は成すすべも無く小谷城[おだにじょう]に籠城する。これに呼応し朝倉義景も出兵した。

8月12日 - 暴風雨の中、信長は朝倉方が守る大嶽砦[おおたけ城]を奇襲し陥落させる。

8月13日 - 朝倉義景は大嶽砦の陥落から形勢不利と判断し、撤退の命を下す。

8月14日 - 信長は自ら本隊を指揮し撤退した朝倉軍を追撃し大打撃を与える。刀根坂の戦い[とねざかのたたかい]

8月15日 - 総大将の朝倉義景は自陣の一乗谷城へ逃れる。

8月17日 - 信長、義景に止めを刺すべく越前に侵攻。一乗谷城の戦い。

8月18日 - 信長、一乗谷の街を焼く。

8月20日 - 秀吉の事前工作により、自分の手勢に裏切られ朝倉義景自刃。朝倉氏滅亡。

8月27日 - 信長軍は、北近江に戻り、小谷城に籠城する浅井長政の攻略に取り掛かる。
すぐさま、信長の命が下った。「お市と子を城から救い出せ」。
だが秀吉をはじめ誰もが分かっていた、戦火の混乱時に足腰の弱い女子供を救い出すのは至難の業だと。お市とは言うまでも無く信長の妹であり長政の妻である。信長が下した鉛のごとく重い命令の前に陣中の各ご武人たちは良い案が思い浮かばず、黙ってしまったが、しばらくして秀吉の軍師・竹中半兵衛が良策をひねり出した。「父の久政は頑固一徹で、父の前で長政はいつも遠慮している。久政を引き離せば、長政も安心して、お市母子を道ずれにするようなことはあるまい。」つまり、父の久政を先に討てと言うことだ。
やはり、竹中半兵衛の策は的中した。小丸にいる久政と本丸の長政を分断し先に久政を自害に追い込んだ後、長政に久政自刃を伝えると状況は一変した。長政はお市を開放するとし、城兵の助命を嘆願した。しかし、降伏は武士の意地が許さぬから腹を切ると言うのであった。
裏切り行為には厳罰で臨んで来た信長だったが、何か思うところがあったのだろうか、この時は信長らしくない計らいで、長政に命と開城後の生活を安堵し、何度も降伏を促したという。だが長政は頑として応じなかったという。一方、お市は長政を非常に好いていたらしく共に自害をする心づもりだったらしい。結局、お市は長政に説得され、無事3人の娘とともに小谷城を出た。そして終に長政は城に火を掛け自刃することになる。こうして浅井家は滅亡した。
そして、助け出されたお市は、信長が本能寺の変で死んだ後、信長重臣筆頭の柴田勝家の妻となり、信長死後の家督争いで、秀吉に攻められ柴田勝家と共に自害するのである。娘はそれぞれ、長女の茶々[淀殿]が秀吉の側室となり豊臣秀頼を生み、次女の初は京極高次の妻、三女の小督[おごう]またはお江与[おえよ]は徳川2代将軍・秀忠の妻・崇源院[すうげんいん]となり、3代将軍家光を生むのである。

■天正2年 [1574年]
正月 - 織田信長は朝倉義景、浅井久政、長政の髑髏[どくろ]を薄濃[はくだみ:漆塗り、金粉・金泥を施したもの]にし、白木の台に乗せ酒宴を楽しんだ。自分に逆らって一時は追い詰められもした朝倉・浅井の髑髏を酒の肴に酒を飲み、信長自身は非常に上機嫌だったというが、さすがに家臣たちはドン引きしていたという。死者を冒涜したのか、敬意を表したのか、または何もかもが思い通りになっていく記念にしたのか、信長自身に聞いてみないと分からない事だろう。信長公記には未だかつて聞いたことも無い、珍奇な肴にて酒を飲んだ、とあるのでそれ自体は一般的なことではなかったと思われる。

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2007年07月09日

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■元亀元年 [1570年]
4月 - 織田信長、徳川家康を従え、朝倉義景[あさくらよしかげ]を討伐せんと越前へ侵攻を開始

4月 - 信長軍、敦賀[つるが]の城をはじめ朝倉方の支城を次々と落とし、朝倉の本城 一乗谷城も目前となった今、信長の妹・お市の夫・浅井長政[あざいながまさ]が朝倉方につき、突如挙兵する。浅井の領国を抜けて進軍してきた信長は退路を断たれたと言うことになる。信長は前方の朝倉との挟撃を恐れ、已む無く全軍撤退の命を下す。朝倉・浅井の追撃があったが、殿軍の木下秀吉軍の活躍で信長自身も命からがら京へ撤退[金ヶ崎退き口]。

6月20日 - 体勢を立て直した信長の軍勢が、北近江、浅井長政の本城 小谷城近くの虎姫山に布陣。

6月23日 - 織田信長、海抜500mの要害堅固な小谷城攻めは無益とし、いったん兵を引き琵琶湖へ注ぐ姉川を越え、竜ヶ鼻へ本陣を移動。
徳川家康着陣。
織田信長・徳川家康の連合軍と朝倉義景・浅井長政連合軍が姉川を挟み対峙する。

6月28日 - 早朝、姉川の河原で姉川の戦い[あねがわのたたかい]が始まる。朝倉・浅井は善戦したが、織田・徳川連合軍が勝利。浅井長政は小谷城に敗走。思うところあってか信長は追わず。
織田信長、小谷城と向き合う二里先の横山城を落とし、木下秀吉に守らせ岐阜へ戻る。

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■天正8年 [1580年]
夏 - 秀吉、播磨[はりま]を平定した後、但馬[たじま]因幡[いなば]へと軍を進める。

■天正9年 [1581年]
3月18日 - 吉川経家[きっかわつねいえ]が因幡鳥取城に入城する。
三木城を兵糧攻めにより落とした秀吉は、すぐさま但馬[たじま]から因幡[いなば]へと軍を進め、毛利方の鳥取城攻略を開始する。因幡鳥取城の本来の城主、山名豊国は秀吉の謀略によりあっさりと城を出てしまった。秀吉は山名豊国に「城を明け渡せば因幡一国を与える」と言ったらしい。当然、罠だったのは言うまでも無い。開城に反対する一部の重臣を残したまま、まさに落城もやむなしかという時、城内の重臣の要請により、毛利方から臨時城主として吉川経家が因幡鳥取城に送られた。吉川経家は毛利両川[もうりりょうせん]の一人、毛利元就の次男・吉川元春一門の武将である。

7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。

9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。しかし、現実は甘くなかった。これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。
しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。
そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから愚の骨頂としか言いようが無い。
だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。それにしても秀吉恐るべしである。
そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。
吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。

10月25日 - 吉川経家が切腹。最後は子供達に手紙を書き残している。「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。

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2007年07月08日

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■天正5年 [1577年]
10月23日 - 羽柴秀吉、織田信長より中国地方攻略の命を受け、京を出立する。

■天正6年 [1578年]
3月 - 三木の干殺し[みきのひごろし、ほしごろし]で有名な三木合戦[みきがっせん]が始まる。これは中国地方攻略中の羽柴秀吉と、播磨国[はりまのくに]の三木城に篭城した別所長治[べっしょながはる]以下約7500人との2年間にも亘る壮絶な長期篭城戦である。支城の英賀城や毛利氏などの支援により隙を見ては兵糧が運び込まれ、このような長期の篭城戦となった。秀吉はまず、一つ一つ支城を攻略し、包囲のための付城[つけじろ]を築いたうえ、数メートル間隔に兵を立たせ、昼夜問わず監視し徹底的に兵糧の補給路を遮断した。

10月 - 織田方の摂津国の荒木村重が離反し毛利氏側につき新たな兵糧の流通経路ができる。摂津は播磨の東。

■天正7年 [1579年]
5月 - 秀吉、播磨の東の摂津からの兵糧流入を遮断するため丹生山明要寺と淡河城を攻略

6月 - 秀吉の軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病死する。

10月 - 毛利氏側であった備前国・岡山城の宇喜多直家が離反し、毛利の領国と播磨、摂津の間が分断され、毛利の支援が途絶える。


■天正8年 [1580年]
1月 - すでに三木城の兵糧は底を尽き、まさに干し殺し状態となる

1月14日 - 城主切腹、城兵助命という条件が出される。

1月16日 - 城中別れの宴が催される。

1月17日 - 三木城城主・別所長治の一族が切腹し、正味1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終わる。「いまはただうらみもあらず、もろ人の命にかはるわが身と思へば」別所長治辞世の歌。

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2007年07月07日

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■天正3年 [1575年]

4月 - 武田勝頼の元に、徳川家康の家臣・大賀弥四郎[おおがやしろう]が勝頼に内応するという密書が届く。つまり寝返ると言うことだ。勝頼は大賀の手引きにて家康の岡崎城を攻めるべく兵を挙げるが、大賀の謀[はかりごと]が家康に見抜かれ大賀弥四郎は殺される。勝頼は挙げてしまった兵を戻さず、同じく徳川方の長篠城攻めに方向転換することとなる。長篠城は徳川方の城といっても城主は信玄の代に武田家に仕えていた奥平信昌。奥平氏は信玄が死んだ時、家康方に寝返っている。家康がその奥平氏を長篠城に配置したのは、もし武田が攻めて来ても寝返った奥平なら必死で武田に抵抗するだろうと踏んでいたからだ。当然、この事で勝頼は憤慨し遺恨に残っていた。だから裏切り者の城を攻め落とさんと、兵を退かず、ついでに押し出して来たのだろう。ちなみに奥平信昌は元の名を貞昌[さだまさ]と言った。この戦いの褒美に信長から偏諱[へんき]を賜り貞昌から信昌と改名したそうだ。

5月11日 - 武田勝頼の軍勢が徳川方に奪われていた奥三河にある長篠城を包囲する。

5月21日 早朝 - 長篠・設楽が原の戦い[ながしの・したらがはらのたたかい]が起きる。この戦の端は5月11日に奥三河にある徳川方の長篠城が武田勝頼軍に包囲され、長篠城篭城戦が始まり長篠城が陥落寸前になることから始まる。兵糧蔵も奪われ、ついに落城寸前にまでなった時、奥平信昌の家臣、鳥居強右衛門[とりいすねえもん]が決死の覚悟で城を抜け出し家康に知らせた。その後、鳥居は帰陣する際、武田軍に捕まり殺されている。すぐさま家康は織田信長に救援を要請した。
そして長篠城西方の設楽が原において、武田勝頼軍と徳川家康・織田信長の連合軍が戦ったのがこの「長篠・設楽が原の戦い」である。この戦いにおいて、信長は乾掘り[けんぼり]や土塁などで構成される陣城[じんじろ]と馬防柵[ばぼうさく]を作り、勝頼軍をうまくおびき出したところを鉄砲で撃ちかけ、勝頼軍に大打撃を与えた。
誘き出したというより、信長に背後の鳶巣山[とびのすやま]を抑えられ、勝頼は云わば罠が仕掛けられた設楽が原に出ざるを得なかったらしい。
重臣たちが撤退を進言する最中、なぜ勝頼が敵の鉄砲隊が激しく撃ち掛けてくる中に、何度も突撃していったのかについては諸説あったが、最近ではこのように前に押し出されたといった事が有力な説になってきているらしい。
信長がうますぎたのである。
あとは前年に父の信玄も落とせなかった高天神城を落としたことで自信過剰に陥っていて、がむしゃらに突撃して行ったのかもしれない。
信長が鉄砲隊を三列にして、前列が撃っている間に後列が準備をし、馬防柵の間から間髪をいれず順番に鉄砲を打ち掛けたのもこの戦いである。
ただし、この鉄砲三段撃ちと言う方法は存在しなかったし、さらに武田の騎馬軍団自体も無かったと言う説もあるので、それが事実だとすると長篠・設楽が原の戦いも、後世に伝わっている様子とはまったく異なる風景だったのかも知れない。
何れにせよ、この戦いで武田軍の重臣、山県昌景[やまがたまさかげ]、馬場信房、土屋昌次らが死んで、武田氏は滅亡の道を突き進むことになり、7年後の武田討伐により滅亡するのである。

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2007年07月06日

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■元亀3年 [1572年]

10月3日 - 武田信玄軍が甲斐・躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]を出立する。出陣の目的としては15代将軍・足利義昭からの要請で上洛しようとした、または信長を討伐しようとしたと言う説がある。いずれにせよ当時の武田最大動員数の約3万弱の兵を引き連れての出立だったと言うから信玄公人生最大の乾坤一擲[けんこんいってき]の大勝負に出たと言うことだろう。兵は三手に分かれ、信玄率いる本隊は徳川家康領の遠江[とおとうみ]へ、秋山信友率いる伊奈衆が美濃へ、山県昌景[やまがたまさかげ]率いる兵は奥三河へと侵攻した。

12月9日 - 信玄軍、徳川方の支城・二俣城を陥落させる。

12月22日 - 圧倒的兵力の差から浜松城に篭城して戦うつもりだった家康は、信玄軍が浜松城を素通りし敷知郡[ふちのこおり]の三方が原台地へ進軍するのを確認、このまま行かせてなるものかと意を決して篭城作戦から野戦に打って出る。

これが、三方が原の戦い[みかたがはらのたたかい]である。

家康はこの戦いで完膚なきまでに敗北し、敗走途中に恐怖で脱糞したことはあまりにも有名。惨敗した家康だが、圧倒的兵力差を物ともせず野戦に挑んだ家康の名声は高まる結果となった。しかし家康がなぜ城を飛び出したかと言う理由は近年の研究によると、浜松城を素通りしていく信玄に一矢も報いず遣り過せば、あとで信長に叱責されるというのを恐れたためとの説や、家康は通り過ぎていく信玄をじっとやり過ごすつもりだったが、血気盛んな家臣たちが見物と称して次々と勝手に飛び出して行ってしまい、それを連れ戻しに行って戦闘に巻き込まれてしまったと言う説が有力らしい。

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織田信長が若い時より好んで舞ったと言う幸若舞[こうわかまい]の演目の一つ「敦盛 : あつもり」
幸若舞は能や歌舞伎の原型と言われています。
信長は桶狭間の戦いに出陣する時にも舞を舞ったと信長公記に書かれている。
「此時、信長敦盛の舞遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者はあるべきかと候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて卸出陣なさる。」

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ物のあるべきか」。
敦盛の動画はこちら

味わいのある歌です。ゾクゾクっと来ますね。やばい、一週間くらい頭から離れなくなりそうだ笑

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2007年07月05日

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■永禄3年 [1560年]

5月 - 今川義元の軍勢が織田信長領の尾張に侵攻。その数2万5千。

5月 - 今川義元、織田方の鳴海城[なるみじょう]を占拠。

5月17日 - 今川義元、沓懸城[くっかけじょう]を落とし、そこに陣を構える。

5月18日 夕刻 - 信長の元に明日19日には今川が攻め寄せて来るのは確実との知らせが入る。伝令:佐久間盛重[丸根山]、織田秀敏[鷲津山]

5月18日 夜 - 信長と家臣たちの間で軍議が持たれたが、作戦に関する話題は一つも出ず、家臣たちは退出の許可が出た後、口々に「運が尽きた時は知恵の鏡が曇ると言うが、今はまさにその時だ」と嘲笑しながら帰ったと言う。[信長公記]

5月19日 明け方 - 信長方の砦、鷲津山、丸根山が今川の攻撃を受けているとの知らせが入る。伝令:佐久間盛重、織田秀敏。
実はこの時、信長方の砦を攻めていたのは、後に信長と堅く友好関係を結び、共に生死を賭けて戦い戦国時代を生き抜いていくことになる徳川家康であった。徳川家康は朱色の武具を付け、今川方の先陣を務めていた。
伝令を聞くと信長は、あの有名な敦盛の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ物のあるべきか」。
信長はすぐさま鎧をつけ、立ったまま湯漬けをかきこみ、兜をかぶり、単騎で清洲城を飛び出していったという。それに続いたのはわずか6騎だけ。その後、ほら貝の音を聞いた家臣たちは支度を整え、我遅れまいと続々と出陣していった。

5月19日 - 今川義元、沓懸城を出発して大高城[おおだかじょう]を目指す。

5月19日 - 信長、熱田社で戦勝祈願をする。この時点で信長の兵は騎馬6騎、雑兵200。続々と集結している様ではあるが、義元の軍勢2万5千にははるか遠く及ばない。ただ、義元の兵は鳴海城や大高城に分散して展開していたらしいので、信長と桶狭間でぶつかった義元の本隊は推定5千位だったと言われている。

5月19日 - 信長、自陣の善照寺砦[ぜんしょうじとりで]に進み、そのまま、ようやくまとまった兵3千の内、2千を率いて、義元が昼食休憩を取っていた桶狭間を急襲した。この時にわか雨が石か氷を投げつけるように降って来たという。信長は雨の中、今川義元を奇襲したと説明する解説書も多いが、信長公記では、にわか雨が止み空が晴れたのを見て突撃したとある。
義元の軍勢は信長の急襲に恐れをなし、どっと逃げ崩れた。乱戦の中、信長は輿に乗っているであろう義元を集中攻撃させ、服部春安が義元に切りかかり、ついに毛利良勝が義元に組み付き首級を挙げた。
逃げた義元の軍勢も桶狭間の深田にはまり、もがいているところを信長の血気盛んな若武者達に矢で射られ、次々に首を取られていったと言う。

先にも言ったとおり、桶狭間の義元本隊の他に、2万は鳴海城や大高城に分散して展開していたはずなので、やろうと思えば信長の本隊を挟撃できたはずである。出来なかったのはやはりあっけなく義元が討たれてしまって指揮系統が麻痺し戦意喪失したのと、信長の軍勢が善照寺砦に大挙して待ち構えているのではないかという疑心暗鬼がそうさせたのかもしれない。
実は信長が善照寺砦に兵1千を残し、旗、指物もその場に残したのは本隊がそこに留まっているように見せた作戦だったからである。義元軍も、まさか信長の軍勢が3千そこそことは夢にも思わなかったのだろう。

こうして織田信長は海道一の弓取りと呼ばれた名将・今川義元を破り、天下統一への一歩を踏み出すのであった。

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板


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かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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