2007年07月22日

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






※注意。今回の記事は秀吉の兵糧攻めですが、悲惨な表現があります。

以前、鳥取の渇え殺しとも言われた秀吉の因幡・鳥取城の兵糧攻め[天正9年 1581年 7月~]の事について書いたが、わずかながら信長公記にもその様子が書かれている。

とりわけ城内の悲惨さが目を惹く。

一群の男女がことごとく城内に逃げ込んだ[秀吉の兵が農民などに、いやがらせや乱暴を働いたりした]ので、下々の農民やその他の長期戦への備えが無かった者たちはたちまちに餓死してしまった。つまり、城内では身分の低い者たちは真っ先に死んで行ったと言う事になる。食べ物が均等に分けられ、行き渡ったと言うことでは無いらしい。
現に城主 吉川経家[きっかわつねいえ]やそれに準ずる者たちは切腹する最後まで生き残っているので、限られた兵糧の厳格な管理上、それは当然の事であった。

そもそも同じ城内とは言え、身分の高い連中は城の建物の内部におって、身分の低い者達は敷地内の庭などにおり両者たちは隔離されていたはずである。倉や城の建物内に備蓄されている食べ物は番兵などによりきっちりとガードされ身分の低い者達には分け与えられなかった。

始めのうちは三日に一度、または五日に一度、鐘の音を合図に、雑兵が全員で城の柵まで出てきて木の葉や草を採っていたという。当然、城の外と接する部分は、外を囲んでいる敵兵に鉄砲や矢で射られる可能性があるので危険地帯なのである。また城を囲んでいる敵にしても、多数の雑兵が急に押し出してきたら怯むので、その隙に城内では草取りが行われていたということになる。

今度、自宅の草取りをする時には命がけで草を採った因幡・鳥取城の人たちの事を思い起こしてみると良い。

草や木の葉より稲の切り株が食い物としては上々だったらしいが、何れにせよ常時では人間の食い物ではない。
それらも次第に採り尽くし、今度は鶏、牛馬を殺して喰らい始めた。
現代の感覚では動物の肉を先に喰らうだろうと考えがちだが、当時は肉食の習慣は無かったらしい。
故に草木などを食い尽くした後に、仕方なく家畜や馬となったのだろう。

そして牛馬を食い尽くすと、さらに状況は最悪になり、終には人間の肉をも食い始めた。
餓鬼[がき]のように痩せ衰えた男女が柵際まで寄ってきて、苦しみ喘ぎつつ「引き出して、助けてくれ」と悲しく泣き叫んだ。
これらの者を鉄砲で撃ち倒すと、まだその者に息があるにも拘らず、飢えた人が群がり手に手に持った刃物で手足をばらし、肉を剥がした。五体の中でも特に頭部は味が良いと見えて、一つの首を数人で奪い合って、取った者は首を抱えて逃げていった。[信長公記]

極限飢餓状態とはこういうものなのか・・・
はたまた、こういう事は行われなかったが、何らかの情報操作のために意図的に記述されている可能性も無きにしも非ず。
例えば、共食いをするほどの人たちなのだからと、篭城兵のレベルを下げ、僅かでも侵略や兵糧攻めの正当性を上げるなど。当然、信長公記は信長・秀吉サイドに有利な事が書かれていると思うのだ。

太平洋戦争時の南方戦線では飢餓状態に陥った日本兵達が、仲間や敵兵の人肉を食ったのは事実らしいが、何れにせよ、飽食で平和ボケしている現代人の我々の想像を遥かに絶する世界である。

この秀吉による因幡鳥取城の兵糧攻めは臨時城主の吉川経家[きっかわつねいえ]らが切腹して、開城となり、篭城していた者達は助け出された。

最後に、こう書かれている。

篭城した者達は、餓鬼[がき]の様に痩せ衰えていたので、食い物を与えたら、皆一様に食い過ぎ、大半の者達は頓死[とんし]してしまった。

折角、地獄の苦しみを耐え抜き助け出されたのに、なんとも哀れなことである。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

2007年07月09日

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






■元亀元年 [1570年]
4月 - 織田信長、徳川家康を従え、朝倉義景[あさくらよしかげ]を討伐せんと越前へ侵攻を開始

4月 - 信長軍、敦賀[つるが]の城をはじめ朝倉方の支城を次々と落とし、朝倉の本城 一乗谷城も目前となった今、信長の妹・お市の夫・浅井長政[あざいながまさ]が朝倉方につき、突如挙兵する。浅井の領国を抜けて進軍してきた信長は退路を断たれたと言うことになる。信長は前方の朝倉との挟撃を恐れ、已む無く全軍撤退の命を下す。朝倉・浅井の追撃があったが、殿軍の木下秀吉軍の活躍で信長自身も命からがら京へ撤退[金ヶ崎退き口]。

6月20日 - 体勢を立て直した信長の軍勢が、北近江、浅井長政の本城 小谷城近くの虎姫山に布陣。

6月23日 - 織田信長、海抜500mの要害堅固な小谷城攻めは無益とし、いったん兵を引き琵琶湖へ注ぐ姉川を越え、竜ヶ鼻へ本陣を移動。
徳川家康着陣。
織田信長・徳川家康の連合軍と朝倉義景・浅井長政連合軍が姉川を挟み対峙する。

6月28日 - 早朝、姉川の河原で姉川の戦い[あねがわのたたかい]が始まる。朝倉・浅井は善戦したが、織田・徳川連合軍が勝利。浅井長政は小谷城に敗走。思うところあってか信長は追わず。
織田信長、小谷城と向き合う二里先の横山城を落とし、木下秀吉に守らせ岐阜へ戻る。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






■天正8年 [1580年]
夏 - 秀吉、播磨[はりま]を平定した後、但馬[たじま]因幡[いなば]へと軍を進める。

■天正9年 [1581年]
3月18日 - 吉川経家[きっかわつねいえ]が因幡鳥取城に入城する。
三木城を兵糧攻めにより落とした秀吉は、すぐさま但馬[たじま]から因幡[いなば]へと軍を進め、毛利方の鳥取城攻略を開始する。因幡鳥取城の本来の城主、山名豊国は秀吉の謀略によりあっさりと城を出てしまった。秀吉は山名豊国に「城を明け渡せば因幡一国を与える」と言ったらしい。当然、罠だったのは言うまでも無い。開城に反対する一部の重臣を残したまま、まさに落城もやむなしかという時、城内の重臣の要請により、毛利方から臨時城主として吉川経家が因幡鳥取城に送られた。吉川経家は毛利両川[もうりりょうせん]の一人、毛利元就の次男・吉川元春一門の武将である。

7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。

9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。しかし、現実は甘くなかった。これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。
しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。
そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから愚の骨頂としか言いようが無い。
だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。それにしても秀吉恐るべしである。
そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。
吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。

10月25日 - 吉川経家が切腹。最後は子供達に手紙を書き残している。「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

2007年07月08日

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






■天正5年 [1577年]
10月23日 - 羽柴秀吉、織田信長より中国地方攻略の命を受け、京を出立する。

■天正6年 [1578年]
3月 - 三木の干殺し[みきのひごろし、ほしごろし]で有名な三木合戦[みきがっせん]が始まる。これは中国地方攻略中の羽柴秀吉と、播磨国[はりまのくに]の三木城に篭城した別所長治[べっしょながはる]以下約7500人との2年間にも亘る壮絶な長期篭城戦である。支城の英賀城や毛利氏などの支援により隙を見ては兵糧が運び込まれ、このような長期の篭城戦となった。秀吉はまず、一つ一つ支城を攻略し、包囲のための付城[つけじろ]を築いたうえ、数メートル間隔に兵を立たせ、昼夜問わず監視し徹底的に兵糧の補給路を遮断した。

10月 - 織田方の摂津国の荒木村重が離反し毛利氏側につき新たな兵糧の流通経路ができる。摂津は播磨の東。

■天正7年 [1579年]
5月 - 秀吉、播磨の東の摂津からの兵糧流入を遮断するため丹生山明要寺と淡河城を攻略

6月 - 秀吉の軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病死する。

10月 - 毛利氏側であった備前国・岡山城の宇喜多直家が離反し、毛利の領国と播磨、摂津の間が分断され、毛利の支援が途絶える。


■天正8年 [1580年]
1月 - すでに三木城の兵糧は底を尽き、まさに干し殺し状態となる

1月14日 - 城主切腹、城兵助命という条件が出される。

1月16日 - 城中別れの宴が催される。

1月17日 - 三木城城主・別所長治の一族が切腹し、正味1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終わる。「いまはただうらみもあらず、もろ人の命にかはるわが身と思へば」別所長治辞世の歌。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

2007年07月07日

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






■天正3年 [1575年]

4月 - 武田勝頼の元に、徳川家康の家臣・大賀弥四郎[おおがやしろう]が勝頼に内応するという密書が届く。つまり寝返ると言うことだ。勝頼は大賀の手引きにて家康の岡崎城を攻めるべく兵を挙げるが、大賀の謀[はかりごと]が家康に見抜かれ大賀弥四郎は殺される。勝頼は挙げてしまった兵を戻さず、同じく徳川方の長篠城攻めに方向転換することとなる。長篠城は徳川方の城といっても城主は信玄の代に武田家に仕えていた奥平信昌。奥平氏は信玄が死んだ時、家康方に寝返っている。家康がその奥平氏を長篠城に配置したのは、もし武田が攻めて来ても寝返った奥平なら必死で武田に抵抗するだろうと踏んでいたからだ。当然、この事で勝頼は憤慨し遺恨に残っていた。だから裏切り者の城を攻め落とさんと、兵を退かず、ついでに押し出して来たのだろう。ちなみに奥平信昌は元の名を貞昌[さだまさ]と言った。この戦いの褒美に信長から偏諱[へんき]を賜り貞昌から信昌と改名したそうだ。

5月11日 - 武田勝頼の軍勢が徳川方に奪われていた奥三河にある長篠城を包囲する。

5月21日 早朝 - 長篠・設楽が原の戦い[ながしの・したらがはらのたたかい]が起きる。この戦の端は5月11日に奥三河にある徳川方の長篠城が武田勝頼軍に包囲され、長篠城篭城戦が始まり長篠城が陥落寸前になることから始まる。兵糧蔵も奪われ、ついに落城寸前にまでなった時、奥平信昌の家臣、鳥居強右衛門[とりいすねえもん]が決死の覚悟で城を抜け出し家康に知らせた。その後、鳥居は帰陣する際、武田軍に捕まり殺されている。すぐさま家康は織田信長に救援を要請した。
そして長篠城西方の設楽が原において、武田勝頼軍と徳川家康・織田信長の連合軍が戦ったのがこの「長篠・設楽が原の戦い」である。この戦いにおいて、信長は乾掘り[けんぼり]や土塁などで構成される陣城[じんじろ]と馬防柵[ばぼうさく]を作り、勝頼軍をうまくおびき出したところを鉄砲で撃ちかけ、勝頼軍に大打撃を与えた。
誘き出したというより、信長に背後の鳶巣山[とびのすやま]を抑えられ、勝頼は云わば罠が仕掛けられた設楽が原に出ざるを得なかったらしい。
重臣たちが撤退を進言する最中、なぜ勝頼が敵の鉄砲隊が激しく撃ち掛けてくる中に、何度も突撃していったのかについては諸説あったが、最近ではこのように前に押し出されたといった事が有力な説になってきているらしい。
信長がうますぎたのである。
あとは前年に父の信玄も落とせなかった高天神城を落としたことで自信過剰に陥っていて、がむしゃらに突撃して行ったのかもしれない。
信長が鉄砲隊を三列にして、前列が撃っている間に後列が準備をし、馬防柵の間から間髪をいれず順番に鉄砲を打ち掛けたのもこの戦いである。
ただし、この鉄砲三段撃ちと言う方法は存在しなかったし、さらに武田の騎馬軍団自体も無かったと言う説もあるので、それが事実だとすると長篠・設楽が原の戦いも、後世に伝わっている様子とはまったく異なる風景だったのかも知れない。
何れにせよ、この戦いで武田軍の重臣、山県昌景[やまがたまさかげ]、馬場信房、土屋昌次らが死んで、武田氏は滅亡の道を突き進むことになり、7年後の武田討伐により滅亡するのである。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

2007年07月06日

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






■元亀3年 [1572年]

10月3日 - 武田信玄軍が甲斐・躑躅ヶ崎館[つつじがさきやかた]を出立する。出陣の目的としては15代将軍・足利義昭からの要請で上洛しようとした、または信長を討伐しようとしたと言う説がある。いずれにせよ当時の武田最大動員数の約3万弱の兵を引き連れての出立だったと言うから信玄公人生最大の乾坤一擲[けんこんいってき]の大勝負に出たと言うことだろう。兵は三手に分かれ、信玄率いる本隊は徳川家康領の遠江[とおとうみ]へ、秋山信友率いる伊奈衆が美濃へ、山県昌景[やまがたまさかげ]率いる兵は奥三河へと侵攻した。

12月9日 - 信玄軍、徳川方の支城・二俣城を陥落させる。

12月22日 - 圧倒的兵力の差から浜松城に篭城して戦うつもりだった家康は、信玄軍が浜松城を素通りし敷知郡[ふちのこおり]の三方が原台地へ進軍するのを確認、このまま行かせてなるものかと意を決して篭城作戦から野戦に打って出る。

これが、三方が原の戦い[みかたがはらのたたかい]である。

家康はこの戦いで完膚なきまでに敗北し、敗走途中に恐怖で脱糞したことはあまりにも有名。惨敗した家康だが、圧倒的兵力差を物ともせず野戦に挑んだ家康の名声は高まる結果となった。しかし家康がなぜ城を飛び出したかと言う理由は近年の研究によると、浜松城を素通りしていく信玄に一矢も報いず遣り過せば、あとで信長に叱責されるというのを恐れたためとの説や、家康は通り過ぎていく信玄をじっとやり過ごすつもりだったが、血気盛んな家臣たちが見物と称して次々と勝手に飛び出して行ってしまい、それを連れ戻しに行って戦闘に巻き込まれてしまったと言う説が有力らしい。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

2007年07月05日

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう






■永禄3年 [1560年]

5月 - 今川義元の軍勢が織田信長領の尾張に侵攻。その数2万5千。

5月 - 今川義元、織田方の鳴海城[なるみじょう]を占拠。

5月17日 - 今川義元、沓懸城[くっかけじょう]を落とし、そこに陣を構える。

5月18日 夕刻 - 信長の元に明日19日には今川が攻め寄せて来るのは確実との知らせが入る。伝令:佐久間盛重[丸根山]、織田秀敏[鷲津山]

5月18日 夜 - 信長と家臣たちの間で軍議が持たれたが、作戦に関する話題は一つも出ず、家臣たちは退出の許可が出た後、口々に「運が尽きた時は知恵の鏡が曇ると言うが、今はまさにその時だ」と嘲笑しながら帰ったと言う。[信長公記]

5月19日 明け方 - 信長方の砦、鷲津山、丸根山が今川の攻撃を受けているとの知らせが入る。伝令:佐久間盛重、織田秀敏。
実はこの時、信長方の砦を攻めていたのは、後に信長と堅く友好関係を結び、共に生死を賭けて戦い戦国時代を生き抜いていくことになる徳川家康であった。徳川家康は朱色の武具を付け、今川方の先陣を務めていた。
伝令を聞くと信長は、あの有名な敦盛の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ物のあるべきか」。
信長はすぐさま鎧をつけ、立ったまま湯漬けをかきこみ、兜をかぶり、単騎で清洲城を飛び出していったという。それに続いたのはわずか6騎だけ。その後、ほら貝の音を聞いた家臣たちは支度を整え、我遅れまいと続々と出陣していった。

5月19日 - 今川義元、沓懸城を出発して大高城[おおだかじょう]を目指す。

5月19日 - 信長、熱田社で戦勝祈願をする。この時点で信長の兵は騎馬6騎、雑兵200。続々と集結している様ではあるが、義元の軍勢2万5千にははるか遠く及ばない。ただ、義元の兵は鳴海城や大高城に分散して展開していたらしいので、信長と桶狭間でぶつかった義元の本隊は推定5千位だったと言われている。

5月19日 - 信長、自陣の善照寺砦[ぜんしょうじとりで]に進み、そのまま、ようやくまとまった兵3千の内、2千を率いて、義元が昼食休憩を取っていた桶狭間を急襲した。この時にわか雨が石か氷を投げつけるように降って来たという。信長は雨の中、今川義元を奇襲したと説明する解説書も多いが、信長公記では、にわか雨が止み空が晴れたのを見て突撃したとある。
義元の軍勢は信長の急襲に恐れをなし、どっと逃げ崩れた。乱戦の中、信長は輿に乗っているであろう義元を集中攻撃させ、服部春安が義元に切りかかり、ついに毛利良勝が義元に組み付き首級を挙げた。
逃げた義元の軍勢も桶狭間の深田にはまり、もがいているところを信長の血気盛んな若武者達に矢で射られ、次々に首を取られていったと言う。

先にも言ったとおり、桶狭間の義元本隊の他に、2万は鳴海城や大高城に分散して展開していたはずなので、やろうと思えば信長の本隊を挟撃できたはずである。出来なかったのはやはりあっけなく義元が討たれてしまって指揮系統が麻痺し戦意喪失したのと、信長の軍勢が善照寺砦に大挙して待ち構えているのではないかという疑心暗鬼がそうさせたのかもしれない。
実は信長が善照寺砦に兵1千を残し、旗、指物もその場に残したのは本隊がそこに留まっているように見せた作戦だったからである。義元軍も、まさか信長の軍勢が3千そこそことは夢にも思わなかったのだろう。

こうして織田信長は海道一の弓取りと呼ばれた名将・今川義元を破り、天下統一への一歩を踏み出すのであった。

1/3  2/3  3/3
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板


逆アクセスランキング

スポンサードリンク

カテゴリー

人気記事ランキング

ブックマーク

ブックマーク キタ━━(゚∀゚)━━ッ!!

かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

ただ今、相互リンク募集中です。通常相互リンクか戦国時代ランキングにご参加下さい。ただし戦国時代関連のサイトに限らせていただいております。 各記事にリンクする場合は、記事タイトル脇にリンクタグが表示されていますので、それをご利用下さい。リンクしていただくと逆アクセスランキングに自動で参加します。
ブログのフィード : XML | Atom
Copyright © 戦国時代ネット