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■天正5年 [1577年]
10月23日 - 羽柴秀吉、織田信長より中国地方攻略の命を受け、京を出立する。
■天正6年 [1578年]
3月 - 三木の干殺し[みきのひごろし、ほしごろし]で有名な三木合戦[みきがっせん]が始まる。これは中国地方攻略中の羽柴秀吉と、播磨国[はりまのくに]の三木城に篭城した別所長治[べっしょながはる]以下約7500人との2年間にも亘る壮絶な長期篭城戦である。支城の英賀城や毛利氏などの支援により隙を見ては兵糧が運び込まれ、このような長期の篭城戦となった。秀吉はまず、一つ一つ支城を攻略し、包囲のための付城[つけじろ]を築いたうえ、数メートル間隔に兵を立たせ、昼夜問わず監視し徹底的に兵糧の補給路を遮断した。
10月 - 織田方の摂津国の荒木村重が離反し毛利氏側につき新たな兵糧の流通経路ができる。摂津は播磨の東。
■天正7年 [1579年]
5月 - 秀吉、播磨の東の摂津からの兵糧流入を遮断するため丹生山明要寺と淡河城を攻略
6月 - 秀吉の軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病死する。
10月 - 毛利氏側であった備前国・岡山城の宇喜多直家が離反し、毛利の領国と播磨、摂津の間が分断され、毛利の支援が途絶える。
■天正8年 [1580年]
1月 - すでに三木城の兵糧は底を尽き、まさに干し殺し状態となる
1月14日 - 城主切腹、城兵助命という条件が出される。
1月16日 - 城中別れの宴が催される。
1月17日 - 三木城城主・別所長治の一族が切腹し、正味1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終わる。「いまはただうらみもあらず、もろ人の命にかはるわが身と思へば」別所長治辞世の歌。
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