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長宗我部元親[ちょうそかべもとちか]。四国土佐の戦国大名です。一度聞いたら忘れられない名前ですね。

子供の頃の元親はかなりひ弱に見え、家臣からも馬鹿にされていたという。武芸は全くダメで、狩に出ても獲物も仕留められなかった。戦国時代の初陣は15~16才が普通だと思われるが、元親の初陣は22才とかなり遅めだった。初陣に際し、元親のダメっぷりが炸裂する。家臣に「大将は兵の先を行くのか? 後を行くのか?」 と尋ねたという。そして、槍の使い方についても、どう使うのか分からず尋ねたというレベルだった。これでは家臣は初陣どころではなく、討ち死にでもするんでは無いかと心配していたという。
ところが、元親はいざ戦が始まると、いきなり敵兵2騎を打ち崩し、押されても「引くな者ども!!」と声を張り上げて押し戻し、見事初陣を勝利で飾ったという。これを豹変といわずして何というか、という変わりっぷりだった。
そして家督を相続した後、土佐一国を支配し、続いて阿波国の三好氏、讃岐国の十河氏、伊予国の河野氏らを攻略し、終に四国統一を成し遂げ、戦国大名の列に加わることになる。

だが、その統一は苦難の連続であり、統一期間は儚い夢幻の如く短い物であった。信長とその意を継ぐ秀吉という津波のように大きな波が押し寄せてきたのである。やはり天下統一を目指す信長にとっては四国も所詮、地方の一地域に過ぎなかったのだ。

当初、元親と信長の関係は良好だった。信長から嫡男の信親に偏諱を賜り[へんきをたまわり]、正室も信長家臣の親族から迎える[明智光秀の家臣、斎藤利三の異父妹]など友好関係がしばらく続き、四国統一に向けて共闘体制をとっていた。

だが、天正8年、信長は元親にたいし土佐と阿波の所領安堵を条件とし臣従せよと要求してきた。元親はそれを拒絶したため、信長との共闘路線は完全に瓦解してしまった。さらに天正9年信長が対長宗我部元親として手を結んだ三好氏[三好長治みよしながはるの弟・十河存保・そごうまさやす]にも攻められ、完全に信長と敵対し四国制覇を阻まれる形となる。
信長は武田勝頼を天正10年[1582年]3月に滅ぼすと4月に安土城に凱旋し、すぐさま5月に三男・織田信孝に阿波の国を与え四国征伐を命じている。そして運命の本能寺の変が6月2日。ここで束の間だが元親は攻められる心配が無くなり、押し戻している。

信長死後の賤ヶ岳の戦い[天正11年 1583年]では、柴田勝家と手を結んで秀吉と敵対し、さらに天正12年の小牧・長久手の戦いでも、信長次男・織田信雄[のぶかつ]と徳川家康らと共に秀吉に対抗した。二つの戦とも背後から秀吉を脅かしたということになる。

そして終に、天正13年[1585年]、伊予国の河野氏・西園寺氏などを攻略し、四国制覇を達成することになるが、散々こけにされた秀吉が黙っているはずも無く、着々と準備を進めていた秀吉に12万5千とも言われる大軍を四国に送り込まれ、敗北し、最終的には秀吉の軍門に下ることで太平洋側の土佐一国を安堵された。

後に嫡男の信親は秀吉の九州征伐に父の元親と共に加わり討ち死にし、元親本人も帰国後に病死、家督を継いだ4男の盛親は関が原の戦いで西軍[反家康]に付き、最後は大阪夏の陣で捕まり斬首され、ここに長宗我部氏は滅びた。
ここで面白い話があって、実は盛親は当初東軍に加わる予定だったらしい。近江国・水口まで進軍したところで、当地を支配する西軍の長束正家[なつかまさいえ]に進路を阻まれ、無理やり西軍に加わることになってしまったとされている。もし、長束に絡まれず素通りしていたら、長宗我部氏は滅びなくても済んでいたかも知れない。

ところで、みなさん饅頭の話は知ってますか? 豊臣秀吉は天下を統一した後に、各地の大名を集めて舟遊びをしたと言うが、秀吉は自ら大名たちに饅頭を配って歩き、そして皆一様に美味しそうに饅頭を平らげたと言う。ところが、長宗我部元親だけは饅頭の端を千切って一口だけ食べ、残りは紙に包んで懐に入れてしまったという。秀吉は「なぜ全部食べないのだ?」と聞くと、元親は「太閤様より頂いた有り難い饅頭ですので、土佐に帰りましたら家来に分け与えます」と答えたと言う。秀吉は非常に喜び饅頭を全部元親にあげたと言う。そうして、ますます秀吉に気に入られた。人柄の良さが滲み出て、なんとも良い話だが、世渡り上手とも言えなくも無い。これって応用すれば、現代でもどこかの場面で使えますよね笑。作り話なのだろうか・・・

最後に、長宗我部元親は海の男、水軍のイメージなんだろうか。小田原の北条攻めの時には水軍を使い、16メートルもの鯨を生け捕りにし大阪城まで運び、鯨など見たことも無かった豊臣秀吉の度肝を抜き、食べさせたという話は有名だけれどもね。

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⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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