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その時歴史が動いた 真田幸村 どん底からの挑戦
家康を追いつめた伝説の名将
関が原の戦い ~ 大坂の役[おおざかのえき]
関が原の戦い[慶長5年 1600年]で石田三成がたの西軍についた真田昌幸、真田幸村[信繁] 親子は、合戦の後、紀州九度山[和歌山県]に蟄居[ちっきょ]させられる。
処刑されなかったのは、家康がたの東軍についた幸村の兄・真田信幸[信之]の助命嘆願のおかげだという。
そして時は流れ、慶長19年[1614年]、豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の鐘に「国家安康 君臣豊楽」の文字が刻まれると、家康がそれに難癖を付けたいわゆる方広寺の鐘銘事件が起きた。
それを切欠として、終に大坂の役が勃発する。
一方、紀州九度山に蟄居中の真田昌幸は失意のうちに死に、
48才になった幸村も何の幸せも感じず、ただ年を取るだけの貧しい暮らしをしていた。
その幸村に大坂城の豊臣秀頼とその母 淀殿(茶々)から書状が届く。
徳川家康と戦うため、直ちに大坂城に馳せ参ぜよという勧誘の書状だった。
このまま失意のうちに老いさらばえてしまうのかと、悶々とした日々を過ごしていた幸村にとって、まさに願ってもいない千載一遇のチャンスが訪れた。
この時、豊臣家から軍資金として幸村には黄金二百枚、銀三十貫が支給されたという。
これは今の通貨価値に換算すると9億円に匹敵するという。いかに豊臣家の資産が膨大なものだったか想像がつく。
こうして、真田幸村のどん底からの挑戦が始まる。
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