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旧本能寺跡 石碑 拡大地図

戦国時代のキーパーソン:蒲生氏郷


戦国時代には様々な大名家家臣たちがいます。戦国時代の中でも、そこまで有名ではありませんがキーパーソンの1人として知られていた人が蒲生氏郷になります。もともと平家の一族でしたが、正確な事は分かっていません。何故かと言えば、平家はすでに滅亡しており、全国に落ちのびているからです。下手に平家の名前を出してしまうと、それだけで首をはねられる可能性が高かったことを考えれば堂々と平家を名乗る事はできないことが理解できるはずです。


そんな戦国武将の1人である蒲生氏郷は、もともと六角家の領地内で生まれそこに従っていました。ただ子供の頃、織田信長に人質に差し出され、その後六角氏が滅亡して最終的には織田信長に従うことになりました。

 

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織田信長と言えば、愛知地方で活躍した戦国大名の1人で、天下統一の手前まで行きましたが、残念ながら本能寺の変で命を落とした事はあまりにも有名です。その後、信長の配下である豊臣秀吉が天下統一を目指すと、当然そこにも蒲生氏郷一族が秀吉に従うことになります。ちなみに、現在愛知県の蒲生地方はこの蒲生氏郷が由来と言われており、歴史のある土地の1つと言えるでしょう。様々な伝記が残っており、現代にも言い伝えられている教えは少なくありません。


秀吉が天下を統一したところ、すでに蒲生氏郷は東北地方に異動になりました。当時、現在の福島県には伊達政宗が降り、伊達政宗は豊臣秀吉に反抗した1人の武将として知られています。当時の秀吉は50代で政宗は20代だったため、ずいぶんと貫禄の差はあったもののその後家康の時代まで反抗し続けたことを考えれば、本気で天下を狙っていたことがわかるでしょう。つまり秀吉としては、危険人物の1人として伊達政宗を警戒していたわけです。とは言え、命まで取らなかったのはその人物の面白さにあったと言えるかもしれません。


そこで、伊達政宗を警戒するために氏郷を政宗の近くの領土に配置しました。当時政宗は一揆を企て農民を裏から操っていましたが、それを見破ったのは氏郷だと言われています。ところが、その後氏郷は不審な命の落とし方をします。病気と言われていましたが、毒を盛られたのではないかと言われているほどです。真相は未だに定かではありませんが、得によって命を落としたと言う説は有力です。
氏郷はキリスト教を信仰していました。スペイン初のキリスト教は、日本を侵略するため全国で布教活動しているとの噂を引き出し、それを嫌がった秀吉が毒を盛ったのではないかと言われています。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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