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戦国時代のキーパーソン・真田幸村(真田信繁)


戦国時代に興味がない人でも、真田幸村(真田信繁)を好きだと言う人はかなり多いのではないでしょうか。真田幸村が主人公のTVドラマが話題となり、その生き様や勇敢な戦い方に共感を持った人も少なくありません。ここではそんな真田幸村の人物像や功績についてご紹介します。

 

 

真田幸村(真田信繁)は、信州・上田城の城主であった真田昌幸の二男として1567年に誕生しました。真田昌幸は徳川家康を2度打ち負かした武将として有名で、その長男は後に徳川家康の家臣となった真田信幸です。幸村の名前が広く知られていますが本名は信繁で、「幸村」の名前は生前の書状などの歴史的記録としては使われていません。「幸村」の名前が世に出たのは大坂夏の陣が終了してから60年以上経過してからで、1672年に刊行された軍記物の「難波戦記」が最初と言われています。幸村は1582年に武田家が滅亡するとその家臣であった昌幸と共に上杉家に帰属し、豊臣秀吉の下に人質として送られました。

 

 

幸村は秀吉に可愛がられ、秀吉家臣の大谷吉継の娘を正妻に迎えます。1592年に始まった文禄の役においては昌幸・信幸と共に肥前名護屋城で700名の指揮を執って活躍しました。1594年にはそれまでの功により豊臣姓を与えられるなど、秀吉の厚い信任を受けるようになります。しかし、秀吉が1598年に死去するとその運命は大きく変化します。1600年に徳川家康が覇権を求めて立ち上がると、昌幸と幸村は豊臣方、信幸は徳川方に分かれ、天下の大決戦である関ヶ原の合戦に突入しました。

 

 

合戦の結果徳川に敗れた豊臣方ですが、信幸の取り成しによって昌幸と幸村は処刑を免れ九度山へ配流されます。1611年に昌幸は死去してしまいますが、1614年に徳川と豊臣の関係が悪化すると幸村は豊臣の誘いを受け、大坂城に入城し「大坂冬の陣」で真田丸を作り徳川と対決します。しかし冬の陣が和睦により終結後、家康の策略で大坂城が丸裸にされると、その翌年の1615年に「大坂夏の陣」が勃発しました。ところが浪人ばかり集めた豊臣方には統制力がなく、家康を中心とした東軍に敗れてしまいますが、幸村はただひとり家康の本陣を2度に亘り攻めたてると、その攻撃の凄まじさに家康は自害を覚悟したと言われています。

 

 

戦に敗れ攻撃に疲れた幸村は、「この首を手柄にせよ」との言葉を残し東軍の下級武将に打ち取られてしまい45歳という短い生涯を終えますが、その勇猛果敢ぶりは「真田日本一の兵」と讃えられました。このように真田幸村は戦国史に残るキーパーソンとして、現在でも語り継がれています。

⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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