« 織田信長 茶道具、茶会の開催を褒美に | ブログトップ

[] 

戦国時代・歴史ブログならココで探そう







旧本能寺跡 石碑 拡大地図

戦国時代のキーパーソン:伊達政宗


戦国時代の人気のある武将の一人に、伊達政宗が挙げられるはずです。伊達政宗でよく言われることは、生まれるのがもう少し前だったら良かったのにということです。やはり、天下を分けるほどの合戦には遅れて参加したというイメージが強くあります。

その人物像やエピソードなどが、織田信長によく似ているということも言われています。実の母親に裏切られたり、逆に父親を裏切ってしまうなど、肉親の情といったものに恵まれていません。それに反して、部下にはたいへん恵まれていて、小さい頃から一緒に育った腹心の片倉小十郎には兄弟同然の気持ちを寄せています。

豊臣秀吉の小田原城攻撃の際には最後まで参加を迷っていて、最後になって片倉小十郎に促されて参加を決めたのも、かなり冷や汗ものだったといいます。汚名を着せられるのを防ぐことができたのも、腹心の功績が大きかったようです。戦国史のなかでは、キーパーソンのことをナンバーツーが占めることが多いと紹介されますが、伊達政宗の場合は正にその典型といえます。伊達政宗の場合はあまりにドラマチックなエピソードが多いので、小説化するにもネタに困らないようです。

一つの例を言えば、嘘かまことかわからないことながら、小さい頃に目の病気を患ったときに、子どもの頃から兄弟同様に育った片倉小十郎が伊達政宗のあまりの痛がりようを見ていられなくなって、自らの刀を抜いて正宗の目をえぐりだしたということがあったという話があります。本当は単なる天然痘だったわけですが、失明したことから隻眼になってしまいました。後に独眼竜と呼ばれるようになったのはそのためです。また、冑の形でも有名な武将ですが、見た目を派手にしておきたいという意識を強く持っていたことから、伊達男だったともいわれています。

ほかのエピソードとしても、2の敵将を追いかけている時に自分の父親を人質に捕られてしまい、その敵を捕り逃さないために、父親を犠牲にしてまで戦いを遂行して、父親も納得させたという話もあります。ほかにも、実の母親に毒を盛られそうになったという話がありなで、波乱万丈の人生を歩んできた武将でもあるのです。ただ、その一方では領民を大事にしていたという話も多く残っていて、領民の豊かな暮らしが守れるようにと宮島に瑞巌寺を建てたりしています。
伊達正宗はスケールの大きな武将としても知られています。じつは、その名声は西洋にまで知られるほどです。関ヶ原の戦いも終わり、世が平和になると伊達家は徳川家に忠誠を誓うようになりますが、対外的にはヨーロッパへと支倉常長などを遣わして野望を見せていくのです。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

コメントを投稿

(ブログかんりにんの承認が必要です。承認されるまではコメントは表示されません。)

逆アクセスランキング

スポンサードリンク

カテゴリー

人気記事ランキング

ブックマーク

ブックマーク キタ━━(゚∀゚)━━ッ!!

かんりにん一言

日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

ただ今、相互リンク募集中です。通常相互リンクか戦国時代ランキングにご参加下さい。ただし戦国時代関連のサイトに限らせていただいております。 各記事にリンクする場合は、記事タイトル脇にリンクタグが表示されていますので、それをご利用下さい。リンクしていただくと逆アクセスランキングに自動で参加します。
ブログのフィード : XML | Atom
Copyright © 戦国時代ネット ブログパーツ