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戦国時代のキーパーソン:武田信玄


武田 信玄は戦国時代合戦において、現在の山梨県である甲斐の戦国大名であり、「甲斐の虎」と呼ばれた武田 信玄率いる武田軍は当時最強といわれており、のちの天下人である織田信長の耳にも武勇伝が届いており、恐れさせるほどの影響力を持っていました。武田 信玄は天下を目指している最中、上洛を前にして病に倒れてしまうことがなければ、日本の歴史が大きく変化していたかもしれないと評される人物です。

武田 信玄の出生日期は大永元年にあたる1521年11月3日であり、甲斐武田氏の嫡男として生まれました。当時の幼名は太郎もしくは勝千代であり、当時太郎と呼ばれていた頃の信玄は武術と学問を共に修め、神童と評されるほど優秀だったことは非常に有名で、幼い時に庭訓往来という武士の心得を記した書物を2~3日という短期間で全て覚えてしまったことに、教育係の和尚は感嘆したほどです。

和尚はその後信玄に三略や孫子といった中国の軍略書まで教えたという逸話があるほど、非常に優秀であったことがわかっています。しかしそんな優秀な信玄を父の武田信虎は嫌い、弟である武田信繁に家督を譲ろうとします。そのことから信玄は21歳になった際に重臣を味方につけ、父親を現在の静岡中央部にあたる駿河に住む娘婿の今川義元のもとへ追放し、自身が家督を相続するクーデターが行われました。

この時信玄が父を駿河に追放した理由は他にも説があり、度重なる戦において難のある父の政策や政治面が影響し、家臣らが疲弊してしまっていた説などが挙げられます。こういった積み重ねから、武田家を武田信虎が統率することに信玄は限界を感じていたようです。

こういった親族へのクーデターは、戦国時代にはよく行われており実際に親、兄弟を殺害することで自身が家督を奪いことは珍しくなく、むしろ武田 信玄は当時でも父や弟を殺すことなく無血で家督相続に成功しています。実際に信玄は父に対して毎年多額の生活費を送金しており、武田信虎は息子である信玄よりも長生きしたとされ、弟である武田信繁も信玄を補佐する役割を担うなど兄弟の仲は良かったとされます。

家督を相続していこう信玄の生涯は戦いの連続であり、山に囲まれ農地に乏しいとされた甲斐国を発展させるために信玄は領土を奪い、家臣には恩賞を与え国を豊かにすることで、領民の支持を得ることが何より重要と考えていました。そして戦に勝つことよりも負けないことが大切だと諭し、何より重視していたのが相手のことを調べ尽くす情報収集であり、三ツ者や素破と呼ばれる忍びの者達に諜報活動をさせていたことも有名です。こういった現実的な考えが、武田軍の強さに繋がったと考えられています。

 
⇒参考 : 戦国時代の本 ⇒戦国時代掲示板

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日本の歴史至上で最も熱かった時代、それは戦国時代。 でも、こんな時代が本当にあったのだろうか? これだけの資料があるのだから、戦国時代ってのは本当にあったんだろうなぁ。 未だに半信半疑な気分でのめり込んでいます。

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